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父の家は商売の家ではない(第二説教集3章試訳) #103

原題:An Homily for Repairing and keeping clean, and comely adorning of Churches. (教会堂を修繕して清潔に保ち、相応しく飾ることについての説教)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら:


家は整えておかれるべきである

 飲食をともにしようとして、あるいは何かの問題について真剣に話し合おうとして、友人や近所に住む人々を自分の家に招くときのことを考えてみましょう。そのとき誰にとっても常識となっていることがあります。自分がだらしない人間であるとか、その招いた友人や近所に住む人々にほとんど敬意を払っていないとかと思われないようにしないといけないということです。自分の家を絶えず修繕して清潔に見た目よく整えておかなければなりません。まして、神の家である教会堂については、そこに集う人々の安らぎのために、すみずみまで修繕して、神に誉れを向けるべくよく整え、清潔かつ美しく保つことがどれほど求められることでしょうか。

列王記にみるヨアシュとヨシアの例

 聖書には、聖なる神殿と呼ばれてあらゆる宝の母であった神の家が、怠慢や不信心から、どのようにして時に朽ちていき、冒瀆されて汚されたのかが書かれています。信仰に篤い王が統治者であったときは、よく布告が出され、寄付が人々から集められ、神の神殿である教会堂が修繕されていました。わたしたちは王たちの第四の書で、信仰に篤いヨアシュ王が人々からの献金を神の神殿の修繕や修理に向けるようにと祭司たちに指示を与えたことを知っています(王下12・5~6)。
 極めて信仰に篤いヨシア王もヨアシュ王と同じく、痛ましいほどに朽ちていた神の神殿を修繕するように命じました(同22・3~7)。

教会堂を整えることについての学び

神の聖なる神殿を修繕することについて、史実がこのように詳しく書かれ、わたしたちがそれによって学びを得ているということは全能の神を喜ばせるものです。その学びとは、第一には聖なる御名をともに誉め讃えようとして集うために民がそれに相応しい場所を持つことを、神がいたくお喜びになるということです。第二には、御恵みについて慎ましく神に感謝し、心と声を一つにして聖なる御名を讃えようとして集うための場所を民が勤勉かつ熱心に修繕しようとすることを、神がいたくお喜びになるということです。第三には、民が自分たちの住む家を建ててそこに装飾を施しきれいに磨きあげていながら、神の家を荒れ果てて朽ちたままにし、美しくないどころか吐き気を催させるような状態にしていることを神がいたく悲しまれるということです。

ハガイ書にみる神の呪い

神がいたく悲しまれ人々に呪いをもたらされることについては、『ハガイ書』で次のように述べられています。「この神殿が廃所となっているのに、あなたがたが板張りの家に住む時であろうか。今、万軍の主はこう言われる。あなたがたは自らの歩みに心を留めよ。たとえ種を多く蒔いたとしても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく、飲んでも、酔うことがない。衣服を着ても、暖まることなく、どれほど稼いでも、穴の開いた袋に金を入れるようなものだ(ハガ1・4~6)。」

これは古い律法のみよるのではない

人々が神の神殿を顧みなかったことを神がこのように呪われたことによって明らかとなることがあります。神はご自身の神殿である教会堂を、民がご自身を讃えるために集う場であるとされ、よく整え修繕されて手入れがされるように望んでおられるということです。しかし、古い律法で神殿が神ご自身によって建てられ修繕されるように命じられているのは、神殿がそこにのみ結びつけられた約束であったためであるとして、これがキリストとその教会の徴や聖奠でもあるという神の御心や御業を認めない者もいます。

「私もその中にいるのである」

これに対して反論するならば、第一に、わたしたちの教会が約束によるものであるというのは、救い主キリストが「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである(マタ18・20)」と言われているとおりです。キリストの名において教会堂に集う多くの人々は、その教会堂において、極めて確かで安らかな約束である神の御恵みによって、また、神の御心や御助力によって、信仰深い人々の中にあって神と救い主イエス・キリストとともにあることになります。

「来たるべきものの影」

そうであるのになぜキリスト教徒は、そこに神がおられるという大きな約束を持っていながら、神殿である教会堂を自分たちで建てないのでしょうか。ソロモン王は自身で建てた神殿に対してその約束を持っていました。さらにいえば、ソロモン王の神殿はキリストの徴でもありました。わたしたちはこのことを神の御子であるイエス・キリストの清らかな光の中で見ることができています。ユダヤ人や異教徒の虚しく意味のない儀式は「来たるべきものの影(コロ2・17)」によってすべて打ち捨てられます。わたしたちの教会堂はメシアであるキリストが来られるという徴となるためだけでなく、神の御心に適うために建てられています。つまりすべての人にとって、自身が住んでくつろいで安らぐために自身の家を持つということであるのです。

教会堂は集う人々によって聖となる

全能なる神はご自身のための家を教区の人々が集まるところとなされ、そこを神の神殿である教会堂と呼ぶようにされ、そこに神の民が神に仕えるべく集まるべきとなされました。これは、天の天でもそのお住まいとしては不十分な神が、他のどこでもなく人間の手によって石や石灰で造られた教会にお住まいになるということを言っているのではありません。神はソロモン王が建てた神殿にもお住まいになりませんでした。神殿である教会堂は、それ自体が聖であるからではなく、そこに集う人々が聖であり、聖にして天なるさまざまなことを行っているということから、聖なるところとされます。

教会堂は礼拝のためにある

 なぜ教会堂がキリスト教徒のあいだで建てられたのかということについてみなさんは理解を深められたと思いますが、ここでよく考えられるべきことがあります。神がご自身のための場を持つようになされたのは、教区のすべての人々から正しく誉れを向けられ礼拝が行われるようにとするためではなかったろうかということです。それは第一にそこで永遠なる神の祝福された御言葉や御心を耳にしてよく知るためです。第二には救い主イエス・キリストが定められた祝福ある聖奠が正しく恭しく誠実に執り行われるためです。第三には、教区にいる神の民すべてが心と声を一つにして御名を唱えて誉め讃え、わたしたちに日ごと豊かにもたらされるあまたの御恵みにかかわり、神が授けてくださる貧しさに思いを致すことです。そしてわたしたちをより豊かに祝福なされるよう、天なる父への心からの深い感謝を示すためです。

教会堂に関心のない者は不信心である

なぜキリスト教徒のあいだで教会堂が建てられ、神の御心に適って使われるようにとされ、淫らで卑俗で世俗的な使われ方がすべて遠ざけられたのかについては、このように考えれば理解できるでしょう。神の神殿を建てたり修繕したりということについてほとんど関心も熱意もない者たちは極めて不信心であり、キリストの教会が持つ善き秩序を踏みにじって神の真の誉れを汚し、信仰に篤い善き隣人たちを邪悪な行いをもって惑わす者であるということになります。教会堂が荒れ果てて朽ちていくのを目の当たりにすることが些細なことであると考えられてもいます。しかしそこに何も手を尽くそうとしない者は、神とその聖なる民に対して罪をなしていることになります。

教会堂が荒れ果てるのは罪である

神の神殿を修繕することから目を背けたり、それを大切なことではないと考えたりすることが罪ではないというのでしょうか。罪でないのなら、人々が自分の家を建ててそれを極めて豪華に飾り立てておいて主なる神の家について何もしなかったことを神があれほどに悲しまれ、人々に災いをもたらされることはなかったでしょう。極めて多くの教会堂が荒れ果て、あちこちがみすぼらしく朽ちていくのを目の当たりにすることは、罪であるとともに恥ずべきことです。

家が朽ちたら人はどう思うか

自分の住む家が朽ちたら、人はそれがもとのとおりに再建されるのを待てないでしょう。そうです、穀物をとっておくための納屋でさえ、修繕されないでいたら、人はどれだけ丁寧にそれを建て直そうとすることでしょうか。さらには、馬小屋や豚小屋でさえ、雨や風に耐えられなくなったら、そこにどれだけの労力を割いて気にかけることでしょうか。永遠の救いにかかわる言葉が説かれてわたしたちの贖いのための聖奠や神秘が執り行われる神の家についてはほとんど気にかけず、むしろ忘れがちになっていながら、わたしたちはあまりに自分の住む家を気にかけすぎているのではないでしょうか。

神の家を整えれば祝福を受ける

救い主キリストの身体と血がそこで授けられて、わたしたちのよみがえりの源がそこで示されているというのに、わたしたちはその場を天なる物事が執り行われるところであると見ていないのではないでしょうか。みなさんが神への務めに対して崇敬を持てば、当たり前の誠実さを持てば、求められるべき信仰深い秩序を保つことに意識を払って教会堂をよく手入れされた状態にし続けていれば、神に喜ばれその無辺の祝福を受けるのみならず、あらゆる信仰深い人々からの称賛を受けることになります。

教会堂を清潔に美しく整えるべし

神の家を大切にすることにかかわっての第二の点として、そこを適切に整えつつ、よく清潔に保つべきであるということがあります。教会堂がよく修繕されていれば、さまざまなことが行われやすくなります。自分の家のなかにあるものがすべてよく整えられて隅々まで手入れが行き届いていると、人間は清々しく満足した気持ちになるのと同じです。神の家である教会堂がよく整えられて腰を掛けやすくあればどうでしょうか。説教者のための説教壇や、聖餐を執り行うための聖壇や洗礼を施すための洗礼盤も含めて、清潔に美しく見た目によく整えられていればどうでしょうか。そこに集う人々はますます熱心に歓びをもって集い、そこでのすべての時間を待ち焦がれることでしょう。

父の家は商売の家ではない

どれほどの強い熱意をもって、救い主キリストは物の売り買いをする者たちを神の神殿から追い出され、両替するための台や鳩を売る者の腰掛けを覆され、神殿に商売のための器を持ち込む者を許されなかったことでしょうか(マタ21・12、ヨハ2・15)。キリストはそのような者たちを指してこう言われました。彼らは迷信や偽善や、偽りの信仰や偽の教義や異常なまでの強欲さによって、また中を歩き回って神をまったく畏れずに、相応しくない世俗の事柄をみだりに語ってその場を辱めることによって、父の家を強盗の巣としたのであると(マコ11・17、ルカ19・46)。わたしたちがいま目にして知っている他の恐ろしい冒瀆に加え、修道院や供養堂で行われる埋葬式や、死後一か月のミサや、三十日間の慰霊ミサによって世の中が欺かれています。ミサで極めて貴いキリストの身体と血を売り買いするという冒瀆によって、イングランドの教会堂がどのような強盗の巣に作りかえられたことでしょうか。

忌まわしさはイングランドにはない

しかし、神の聖なる御名はいつまでも祝福されます。キリストのための場を世に持とうとする人々がこのような忌まわしいことすべてをイングランドの教会堂から一掃したのです。盲目的な祈りや無知によってこの何百年ものあいだ教会堂に入り込んでいたそのようなあくどく淫らな事柄を駆逐していきました。それゆえ、ああ、善良なるキリスト教徒たちよ、イエス・キリストにいたく愛されている人々よ、この世にある虚しい教えに、つまりむやみに教会堂を飾り立てることに栄えがあるようにとしてはいけません。真にある神の御栄えと、古い時代にあった信仰深い教会堂のありようを見て心の中で喜びましょう。今日においてもわたしたちの心正しくさせる全能なる神の善性に対し、また信仰深い説教者たちのみならず信仰深いキリスト教国の統治者たちの善に対しても、心からの感謝を表して神の御心に適った事柄がうまく進むようにしましょう。

まとめと結びの祈り

 みなさんの教会堂の美しさを汚していた罪深く迷信に満ちた淫らさが洗い流されますように。みなさんが善なる人であるなら、教会堂を美しく清潔に保ち、天気が雨であっても、鳩や梟といった烏の糞など汚らしいものが落ちて来ても、汚されないようにできるはずです。この国でそのような汚らしさがたくさんのところで目にされるのは嘆かわしいことです。そこは祈りの家であって、無駄話をしたり歩き回ったり口論をしたりなどというところでも、また吟遊詩人や鷹や犬の家でもありません。邪なユダヤ人がそうしたように、神の聖なる家を蔑み冒瀆することによって、神の怒りや災厄を招かないようにしましょう。神を心の中で想って、御心に従い、皆で力を一つにして教会堂を修繕し清潔に保ち、神の大いなる祝福を受ける者となりましょう。教区にある教会堂にすすんで集い、そこで神と隣人たちに対する務めについて学び、キリストの聖奠にあずかってそれを受ける者となりましょう。天なる父がその大いなる御恵みを日々みなさんに与えてくださっていることに感謝し、神の聖なる御名を唱え、御名が世々限りなく祝福されるよう祈りましょう。アーメン。


今回は第二説教集第3章「教会堂を修繕して清潔に保ち、相応しく飾ることについての説教」の試訳でした。次回から第4章「善き行いについて」に入ります。まずはその第一部の解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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