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私が繁華街の“キッズ”たちを取材する理由。大人に助けてもらえなかった元キッズの回顧録

2月21日付で公開された執筆記事が、はじめてYahoo!ニュースのトピックスに選ばれた。

人生で初のヤフトピ。担当編集者さんから連絡が来た直後は、「ようやく!! 獲ったぞ!!」と小躍りするほど喜んだ。

WEBのニュースサイトで取材記者をやっている以上、ヤフトピ獲得は大きな目標のひとつだ。狙ってもなかなか獲れるものではないからこそ、選ばれたときの喜びも大きい。

さて、この記事は、別の取材記事の派生として書いたものだった。

こちらは担当編集者さんから、「年末年始に帰省するなら警固キッズの様子を見てきてくれませんか?」と依頼されたものだ。「公園に行って様子を見るだけでもいいです。可能なら当事者に話を聞いてみてください」相談され、せっかくなら支援団体を調べてみようと自力で行きついたのが、SFD21JAPANの小野本さんだった。

警固キッズに関する話を聞くだけではなく、小野本さん自身の活動も取り上げてはどうか。そう編集部に提案し、企画会議にかけてもらったのだ。

じつは私は、今まで何本か「若者支援」に関する取材をしている。

今回警固キッズの取材を終えて、自分が何のために居場所のない子供たちを取り上げるのか、なぜキッズたちの支援者を取材するのか、文章で書き残しておかなければいけないと思った。トー横などについて書いている人たちがたくさんいる中で、なぜ私も書くのか。

端的に言えば、私自身が虐待サバイバーで、家にも学校にも居場所がなく、誰にも助けてもらえない子供だったからだ。

すべてを語るとあまりに長くなりすぎるし、自分の傷をぜんぶ晒すにはまだ乗り越えられていない。それに、当事者である両親が生きている。母に対しては復讐心があっても、世間の批判が父に向くのは望んでいない。だから、書ける範囲で少しだけ書こう。

筆者近影/Photo by藤井厚年(SPA!)



小学校に入学した頃から、大学で地元を離れるまで、主に母からネグレクトと過干渉と監視、暴力を受け続けていた。両親は別居しており、私はずっと母とふたり暮らし。刃物を使った暴力が始まったのは、小学校3年生の頃だったと思う。きっかけや理由は忘れてしまったけれど、彼女の気に障る言動をすると、ヒステリックな怒声とともに包丁を向けられるようになった。

小学校6年間はたった一度しか友達と放課後に遊ばせてもらえず、中学に入ってからは「どこの誰と(親は何をしている人と)どこに行って何をして何時に帰ってくるか」を事前に言わなければ、家から出してもらえなかった。連絡用に持たされたガラケーのメールはぜんぶ見られていて、私宛ての手紙も勝手に開封されて読まれていた。

彼女のヒステリーと暴力は年々酷くなり、刃物と素手での暴力に加え、ライターを使って肌を焼かれそうになる・髪の毛を掴まれて引きずりまわされるなどが日常茶飯事に。

たった1本、髪の毛が洗面台に落ちていただけでスイッチが入るから、毎日怯えて暮らしていた。

父の家に泊まりに行く予定だった、あるときの週末。急に体の具合が悪くなり「調子がおかしいから今日は家で休みたい」と訴える私を、母は鬼の形相で追い出した。直前に何か彼女のスイッチを押してしまったせいだ。グラグラする頭でなんとか駅に向かうもホームで吐いてぶっ倒れ、救急車で病院に運ばれた。

たしか、ウイルス性の急性腸炎だったと思う。病院に駆け付けた母は、私を見るなり叫んだ。

「具合が悪いなら何で言わないの! 人に迷惑をかけて!」

言ったじゃないか。それを追い出したのはアナタだろう。それよりも、私の心配をしてよ。書ける範囲でコレだ。フラッシュバックの錯乱と引き換えに書けと言われたら、もっと酷いエピソードなんて腐るほどある。

救いようがないのは、母は地元で有名なボランティア団体の会長だったことだ。「ぜったいに助成金は受け取らない」という謎の意地でNPO法人化はしなかったが、警察や行政と連携し、福岡市議会に呼ばれることもあったらしい。

当時、地元TVや新聞によく取り上げられていたから、詳しく書けば分かる人もいるだろう。命を救う活動をしていてカリスマ扱いされていた人物が、家では娘を虐待していたなんて、クソくらえってもんだ。

「ウチの家は何かがおかしい」と気付いたのは、小学校5年生くらいだったと思う。当時の担任に相談して返ってきたのは、「お母さんはアナタのことを想って厳しくするんだよ」という、クソみたいな言葉だった。勇気を出して話した子供を絶望させるには十分すぎる。

中学2年の頃だったろうか。国語の宿題で"自分の家族をテーマにした作文"が出され、私は母から受けている仕打ちについて書いた。たぶん、子供なりのヘルプサインだったんだろう。

作文を読んだ国語の教師と担任に呼び出され、話を聞かせてほしいと言われた。これで助けてもらえる。洗いざらい話した内容は校長に伝わり、児童相談所の職員と校長室で面談することになった。

子供の私が周りの大人に望んでいたのは、「母親を説得してまともな親にしてほしい」の一点のみ。怒鳴ったり殴ったりせず、ちゃんとご飯を作ってくれて家事をしてくれて、話を聞いてくれる普通のお母さんになってほしいだけだったから。

でも当時は今ほど虐待が社会問題になっておらず、学校や児童相談所が介入できる範囲も限られていた。私に提示されたのは、“シェルターに逃げる”の一択だけ。そんなの、親に“まともに”愛してほしい子供に与えたところで、何の解決にもならない。

児相の職員は定期的に学校に来てくれて、状況を聞いてくれた。でもそれだけ。担任も毎日気にかけてくれる。でも母親と直接話をしてはくれない。母は外面の良い人だったから、作文のことが分かったとき「家の中の話を外の人にべらべら喋るな」と烈火のごとく怒りだして殴られまくった。それを担任に伝えていたから、介入すると余計に酷くなると、あえて様子を見ていたのかもしれない。

警察もしょっちゅう来た。密集した住宅街に住んでいたから、私の「助けて! 殺される!」という叫び声を聞いた近隣住人がいつも通報してくれていたのだ。だけど、対応した母に「親子喧嘩です」と言われては帰っていった。目の前で私が泣いて助けてって叫んでいるのに。

母が運営する団体のスタッフにヘルプを出したこともある。でもいつだって「お母さんは心配しているだけだよ」と返されるだけ。これらの経験から、高校生になった頃には「周りに助けを求める」という選択肢は、私の中から消えていた。

誰かに助けてほしかったけど、誰も助けてくれなかった。誰に頼ったらよかったんだろう。唯一親身になって寄り添ってくれた大人は、インターネットで知り合った、会ったこともないお姉さんたちだけだった。

リストカットを始めたのは14歳からだ。なんとなく切ったら、気持ちが少しだけ楽になった。気付いたときには、ポケットの中にカッターを持ち歩いていた。リスカしていることが母にバレた夜、「みっともない」「死ぬなら死ね」と泣くまで殴られた。

母が私を嫌っていたならば、まだ愛情への諦めもついただろう。機嫌のいいときは優しかった。ふだんはご飯を作ってくれなくても、運動会や遠足の日だけは朝早くに起きて豪華なお弁当を作ってくれた。誕生日やクリスマスはちゃんとお祝いしてくれて、お金も湯水のように与えてくれた。でも彼女の愛し方はとても歪んでいて、いつだって目の前の“私”を見てくれなかった。

「愛されていないわけではない」という事実が、30を過ぎた今でも私を苦しめる。最初から何もなければ、心底どうでもいいと思われていたなら、愛情に期待すらしなかったのに。

高校からは父と暮らし始めるも、その生活は上手くいかなかった。高校受験に失敗し、私が不登校になったからだ。

進学した高校は、滑り止めで受けていたお嬢様学校。田舎にある父の家から近かったため、一緒に暮らすことに。最初こそ真面目に通ったものの、育った環境の違いや受験失敗のショックからクラスメイトたちと馴染めず、すぐに行かなくなった。

今なら分かる。父もきっと戸惑っていたんだろう。娘と10年以上ぶりに暮らせるようになったかと思いきや、娘はすでに精神が壊れていて、学校にもろくに行かないのだから。どう接したらいいのか分かったのかもしれない。そうした歯がゆい思いや苛立ちから、私に辛くあたったんだろう。

父に話を聞いてもらえず、厄介者扱いされたのはつらかった。けれど、それ以上に、祖母からの「お父さんを困らせないで」という言葉に追い詰められた。

ちゃんと私自身を見てくれる人が、私自身と向き合ってくれる人が、家族の中に誰もいなかった。誰でもいいから、家族と呼べる人に話を聞いてほしかった。

オーバードーズを始めたのは、高校生で心療内科に通い始めてから。処方薬だけでは足らないから、市販の風邪薬も混ぜて飲んでいた。

ヴィジュアル系の音楽と出会ってからは、ライブハウスが逃げ場になった。

好きな音楽を楽しんでいる時間だけは心が楽になれたし、V系独特の世界観が現実を忘れさせてくれたから。そこで知り合ったバンギャ友達も、何かしらの闇を抱えた子が多くて、リスカやODが当たり前に受け入れられる関係性に依存した。

ボディピアスも身体のあちこちに開けていた

私にとってのライブハウスが、今のキッズたちにとってのトー横やグリ下や警固なんだろう。そこに行けば似たような同年代がいて、世間から眉をひそめられる行為をしていてもそれが“普通”で、インスタントな関係で終わることもあれば、傷のなめ合いの共依存もできる。その居心地の良さは、経験済みだ。

中高のうちに何度も自殺を試みた。致死量が出るほど深く手首を切れなかったり、薬の量が足りなかったり、ギリギリで足がすくんで飛び降りれず、どれも未遂やままごとで終わったけれど。そんなことをして心配してくれる家族は誰一人おらず、その事実に寂しさと辛さを拗らせたまま、大人になってしまった。

お金と、「大学教授になりたい」という夢がなければ、私はとっくの昔に死んでいる。生きていたとて、今こうやってライターをしていることもなかっただろう。

お金だけは両親から死ぬほど与えられた。ねだればくれるソレに、いつしか愛情を見出した。泣いてねだればお金をくれる。お金をくれるってことは、気にかけてもらえている証拠。渡された諭吉の枚数が、私にとって愛情のバロメーターだった。

父ともいろいろあったものの、基本的に父は大好きだし、大学院まで学費や生活費を出してくれたことには純粋に感謝している。今生きる上で武器になっている知識や経験は、お金がなければ手に入らなかった。

すべてを話したカウンセラー、精神科医、大学で師事した法務教官の先生、某裏社会ジャーナリストさん、とにかくあらゆる専門家からは「その生い立ちで今まで一度も人を殺さず、殺されず、身体も売らずに今まっとうに生きているのがおかしい」と驚かれた。いろんな人が口を揃えて言ってくれたその言葉が、生きるための自信とお守りのようになっている。

大学に行かせてくれたおかげで、家庭教師として働くこともできた。だけど担当した生徒のほとんどが、不登校であったり、親から精神的虐待を受けていた。自分を見ているみたいで放っておけなくて、何とか助けてあげようと頑張ったこともあったけど、助けてあげられずに会えなくなってしまった子もいる。

いま私が若者支援について取材しているのは、誰にも助けてもらえなかった元当事者かつ、教育に少しだけ携わった人間だからだ。

自分は助けてもらえなかったけど、いまの支援体制と子供たちの状況はどうなんだろう。その視点で取材して世間に訴えることで、心の中にずっといる「子供の私」に寄り添いたいのだと思う。

取材中、何度もフラッシュバックに襲われた。親と子の仲介役として動く田村さんや小野本さんの話に、「こういう人が私のときにもいてくれたら」と泣きたくなった。

たぶん、これからも取材を続けるたびに苦しくなる。家に帰って倒れ込むような真似を、何度も何度も繰り返すだろう。だけど、知って書いて伝えないと。

健全な家庭で育った人間に、物見遊山に似た気持ちや興味から“分かったような顔”をして書かれたくないから。

お金と学習の機会に恵まれていただけでも、誰かにとっては私こそ「当事者ヅラして分かったようなことを書く人間」だったとしても。

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