すべてはノートから始まっていた ーー月ノ美兎の神話を解体する


はじめに ーー過剰な神格化を避けるために

「私の魔法はね、根性って名前なのよ。根性は不可能を可能にする。ま、あなたには理解できないでしょうけどね。大人には、魔法なんか信じられないでしょうから!」                                                 日日日『魔女の生徒会長Ⅴ ママはあなたが嫌いみたい』

近年の研究によると、天才に共通するパーソナリティというものは確かに存在はするが、それよりも他者との協力やアイデアの外出し、そして道具などの外的装置の助けを借りることで、独創性は生まれるという。つまり、誰もが創造性を発揮できる可能性があり、そして創造性を発揮するためには「失敗を恐れず、愚直に行動すること」が大事と言われる。

月ノ美兎さんの考察を読んでいると、その中身はかなり彼女の「天才性」に向けられたものが多いが、彼女がどのような努力を行ったのか、何が起こっているのかを解析したものは少なく、ちょっと複雑な気持ちになっていた。今は消えてしまったインタビューだが、月ノ美兎は「(自分に広範なサブカル知識はないけれど)全知全能を演じるのは簡単」と言っていたからだ。

天才を天才と言えば、安心ができる。でも、天才も死ぬほど努力をしている。

個人的な感想になるが―—2018年頃、月ノさんの動画をいくらか見て、離れてしまった。それは動画自体は面白かったのだが、「そもそも真面目な女の子が、かなり無茶をして悪びれている」印象があったのを覚えている(今は普通に見返す)。そして、友達とも話して結論したのは、この子は自分を清楚だと言い張っていたが、実際は、特に初期、月ノさんはどうしても真面目で頑固で、お堅くなってしまう自分に絶望して自分自身に反逆していたのではないかということである(これは外野の無用な詮索なので、月ノさんは間違っていたら心の中でぼこぼこに殴っていい)。

すでに一部明かしているように、彼女はそもそも雑談の話題をきっちりストックするなど工夫を様々な所で凝らしている。そして彼女の方法論は、ひとつひとつを分解するとむしろ、かなり原始的でわかりやすい

ならば、論理的に説明ができるところは、一度固めて書いておいた方がよいように感じた。それは、実際に今年の初めに失踪してしまったように、自分一人の身を削りながらアイデアを出すのは限界があるからである。

あくまで、ここに書くのは視聴者側が見ていたらこう見えた、という限界のあるものである。そして、今生きている人の話である以上、完璧はない。昨日の配信などを見てると、これも委員長にとっては苦手な「常識」の話かな…と感じたりはしますが…。この文章自体も、凡人が当たり前のことを書きなおしているだけ、である。



基本方針① ノートを書く


ファンの方ならご存じだと思うが、月ノさんは「死ぬまでにやりたいことリスト」を作成して、それを一つずつやっていっている。

ノートにはありとあらゆる妄想を書き溜めておくことができる。そして先週出版された倉下忠憲『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』によると、人類は脳が高度に発達するにしたがって、ノートのような外部装置に記憶することによって文明を発達させた

特に倉下氏は、情報が多すぎる社会の中では、一人一人が自分の方法で、自分の世界を作ることができるノートこそが自分の考えを拡張できる。しかもそのノートは他人、あるいは時間が経って内容を忘れた自分が読み直すことによって、新しい解釈や誤解を生むことができる。ノートは、アイデアの土壌である。

ノートの使い方は人それぞれであり、決まり決まった正解がない。そして正解がない自分だけの秘密を手元に置いておけることこそ、ノートを書くことの強みである。(漫画や小説を読むことは、その秘密をこっそり共有することであり、そもそも読書はうしろぐらいことだと思われていた時代もあった)

ご本人がどういうものを書いているかはわからないが、あれだけ何度もノートの話をするということは、アイデアや雑談を何等かノートにまとめつづけていると考えてよい。その継続的な努力が、おそらくしゃべりの面白さの足腰を作っている。


発明王エジソンは、生前3500冊のノートを作成し、ありとあらゆる実験を行った

「萌え」という言葉の元祖となった吾妻ひでおは、元々ナンセンスギャグを書く人だった。ノートにわけのわからないネタをひたすら書き続けた日記も、人気を博した

月ノさんのnoteは、最近はあまり更新されていないが、彼女のノートの一部を見せてくれる。つい先日、『月ノさんのノート』という名前で出版された

基本方針② 相手がどう思うか想像し、文脈を押さえる(死ぬほど保険をかける)

自意識過剰の裏側のお話である。

きちんと形になっている動画(謎ノさんや)を見ていると、明らかにかかる工数がおかしい。自意識過剰は、それを外に出せない危険がある代わりに、ひっくり返すことができれば、用意周到さに持っていける

いないリスナーに呼びかける/挨拶を固定する

起立!気を付け!こんにちは!月ノ美兎です!

これはどちらかというと、YouTuberの基本技法。

月ノ美兎さんだけではなく、HIKAKINさんを始め、多くのライバーが自分固有の挨拶を作っている。月並みではあるが、これは「いつもの時間が始まった」「終わった」という合図を聴覚に与えることになる。ラジオのジングルも同じ効果があるだろう。

そして、美兎委員長と、特にアンジュ・カトリーナさんは、生放送で話す時に圧倒的に「こうは思いませんか?」とか、「~だよね?」とかの呼びかけが多い。(失敗するとエビオ構文する)これは、雑談やゲームで視聴者を置いてけぼりにしない小さいが大事な工夫になる。

(失敗例・自己完結してるやん!)

90-00年代に人気だった子供向け番組「ハッチポッチステーション」は、オープニングでキャラクターが上の階にエスカレーターで上昇し、エンディングで下の階に下降する。このアニメには人はグッチ裕三一人しか出演せず、ぬいぐるみのキャラは皆顔が灰色であることから、実はこの駅は死の世界の表現じゃないかと私は思っている


逆張りをかける、異物を混入して実験する ーーわかりやすい評価軸やレッテルを破壊し、物事を俯瞰する

逆張りの話はこちらの冒頭部で、絵画教室の先生に教わったとのこと

月ノ美兎の発想の根幹は「逆張りを張ること」である。ほかならぬにじさんじの真ん中にいる彼女が、にじさんじレジスタンスしているのである。

逆張りというのは、「発想の転換」の第一歩である。例えば、「部屋を片付けられない」という悩みがあったとする。これは「部屋はきれいに整頓されているのがよい」という価値観が前提になっている。この時、「部屋を片付けないとよいことがある」と考えるのは、その価値観への逆張りである。

実際、部屋が片付いていないことでランダムな刺激を周囲から受け、アイデアが思いつきやすくなるという話もある。このように目線を瞬時に変えることができるクセを持つことで、物事は客観的(あるいは相対的)に見るクセがつく。

シャニマスの絵に対して異物混入を仕掛けるスタイル

ただし、この方法を乱発しすぎると、確かに物事は面白くなるのだが、何も根本的な解決になっていないパターンに入りこむことがあるのでご注意。(前々回の記事で詳しく書いた)

虚勢を現実になるまで張り続ける(北野武風)

本文中の極端な意見、過激な言説はあくまで読者の大脳皮質を刺激し、論理的および倫理的判断力を高めることを目的とする意図的な暴言であり、北野武の個人的思想、政治的見解と必ずしも一致するものではありません。暴言の裏が読みとれない、冗談の意味がわからない、無性に腹が立つなどの場合、直ちに読書を中止することをお勧めします。                      北野武『超思考』背表紙より

「お前ら覚悟しておけよ!」とか、「未来の子供たちへ」といったハッタリじみた言葉は、それが発された時点では意味が確定していない

言語学では、「行為遂行的発話(パフォーマティブ)」な言葉と「事実確認的発話」が存在している。事実確認的な言葉は文字通り、これまで起こったことを確認する言葉である。

一方で、「おまえら覚悟しておけよ!」とか「いつか借金を返します」という言葉は未来に向けられたものであり、その言葉がどう解釈されるかはその後の行動や現象に託されている。「覚悟しておけよ」の後に、北野武映画のように優しくされてしまうことだってありえる。

月ノさんの言葉には、こうした未来に向けた言葉が異様に多い。




体験する/ライバー・リスナーの持ってきたものを受け入れる/コンテンツにまっすぐ向き合う

私の場合、良くないクセで作品を聞くときはかなりレビューなどを頼って、先入観もりもりの状態で見てしまうが、月ノさんの話を聞くと、体験レポでも作品に対しても、なるべくレッテルを貼ることを避けて、細やかに、自分の言葉でなんとか体験を説明しようとしている。これはリスナーに対してもある程度そうである。

新しい体験をすると、すぐにマンガのネタにならないかと考えます。もしなりそうだと思ったら、どんなストーリーにしようか、どんな風に見せたら効果的かと考えはじめ、とてもワクワクしてきます。                                   新しい体験=勉強だという感覚は一切ありません。ただ自分が楽しんでいるだけ。その楽しさを、自分だけではもったいないからみんなに伝える手段が、僕にとってはマンガなのです。                            秋元治『秋元治の仕事術』(p132)

余白を作ること・受け入れる余裕を作ることについてはこの記事


実演する・何かをやる時の心的ハードルを下げる

ぼくの若いころは、マンガを描いているなんていおうものなら、                         「まー、おもしろいご趣味ですこと」                          といって皮肉たっぷりにからかわれたものだ。そのくせがついて、いまでも人前で漫画を描くときと、べんとうをたべるときは、つい片手でかくしてしまおうとする。なさけない条件反射である。                         いまのヤングはその点、堂々と、これ見よがしに描ける立場にある。絵が下手だとか恥ずかしいといかいう時代ではない。                                 ふてぶてしく描こう。                                           ということは、どんなものをどんなふうに描いてもいいのだ。支離滅裂、奇っ怪破廉恥、荒唐無稽、独善茫然自暴自棄、非道残虐陰惨無法、狂乱狂恋百鬼夜行的なものを描いてもらいたい。それが、つまり落書き精神だ、ということは冒頭に述べた。                                   手塚治虫『手塚治虫のマンガの描き方』

大事なのは、出会った面白い出来事に素直であることだ。

孔子には「魚を与えるよりも、魚の釣り方を教えなさい」という言葉がある。そして月ノさんの動画の中には、一部、ただ単に絵を描いて遊んでいたり、雑談をしているというよりも、まるで子供に母親が付き添ってさりげなく、絵の描き方を教えたり、世界の見方を教えているように見える時がある。

特に『月ノさんのノート』は、一個一個のエピソードはわけのわからない脱線まつりだが、ふと冷静に引いて全体を見ると、月ノ美兎が創作や自意識に関して、普通の人と変わらずに七転八倒している様子が見える。子どもに親が物を教えるひとつの方法は、自分が全力で人生を生きる背中を見せることである。

SNSを見れば、自分よりすごい絵師が無限にいる時代である。それでも、自分を救うために創作を行うことがある。月ノさんの存在は、明らかに創作を行う人の糧になっている。




フレーム・枠組みと段取りを意識する(隠すところ、見せるところと、見せる順番を意識する)

これはもうほとんど映画とか映像の基本である。

映画や絵画は、「枠組み」が存在するため、「どこからどこまでを見せるか」をコントロールすることができる。さらに、回想シーンなどを用いて、時間軸もずらすことができる。故に、映画を見る時は「その映像を用いて映画監督が何を企んでいたかを考える」あるいは、「見えない部分を想像しながら見る」ことが大事だというのが、映画評論家たちがよくいうことである。

ポイントは時間性を意識して、何をどの順番で見せるか、「段取り」をよく考えることである。これはフリとオチの重要なお笑いとホラー、どちらでも重要なことである。伏線は、手順を考えているうちに描けそうなポイントが出てくる。


C1とかC.I.という用語を正確に使いこなす委員長

記号学者のロラン・バルトは、現代の神話について、「神話が作られる過程を隠しきってしまえば、それは神話にしか見えなくなる」と述べている。問題は、どこまで見せて、どこまで隠すかである。


Bruce SpringsteenのBorn in the U.S.Aを、まずは字幕などなしで聞いてみて欲しい。その後、和訳を見て見ると衝撃を受けるだろう。この曲は、一部分をカットするとあっという間に曲の意味も変わってしまうことを表す好例である。実際に当時の大統領は、サビ部分だけを切り取って愛国の歌として使ったという。

お笑いの理論のひとつはこれ。

仲間とリスナーを信じる!

みなさんがいれば大丈夫!


終わりに 本当はいつも胸ドッキン

"大半の人が細部を見なくても、私は私を救わなくちゃいけないんだ"             『映像研には手を出すな』より

私を含め、自分を「普通」だと思い込んでいる人間は、才能がある人々のことを神格視しがちである。しかし、天才は天才ですべての面においておかしいわけでもない。西尾維新をはじめ、多くの作家は「この人はこういう風にしか生きられない」という形で、才能を発揮することも多い。しかも、思い通りの才能や、その才能が発揮できる場所が与えられるかどうかは、誰にも100%は予測できない。

月ノさんの場合、バーチャルユーチューバーになることまでは選んでいたものの、2018年にあれほどのバズを生むことは考えていなかった。つまり、はじまりはあくまで「偶然」である。辛辣な友達曰く、単なるバズや作品が一発屋で終わるなら、それはその人のそれまでの人生の中での準備が整っていなかったからだと言っている。

そして「3年」続けたとなると、そこに見るべきは神格性よりも、むしろアイデア出しなどの血のにじむような努力である。ハッタリをかますことは、「未来がどうなるかわからないのに、勝手につく嘘」である(事実と違うことを言っているわけではない)。そのハリボテの言葉を、目の前の出来事ひとつひとつにまっすぐ立ち向かってきた、その最初の一歩目は少なくとも、私たちと同じ、一人部屋で好きな音楽やマンガ、そして出会った人たちを信じ続けたところからはじまっていた。どんな地獄がそこに待ち受けていたとしても。

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