近所のお豆腐屋さんを継いだヤンチャな「婿殿」がSDGsに目覚めるまで
茨城県取手市を本拠地に、お豆腐を製造・販売する「染野屋」は、江戸時代末期の文久2(1862)年に創業し、160年近い歴史を誇る老舗です。八代目「染野屋半次郎」を襲名した社長の小野篤人さんは、実はお婿さん。結婚するまでお豆腐屋さんを継ぐなんて、考えたこともありませんでした。
ありふれた「近所のお豆腐屋さん」を飛躍させ、今では大豆ミートの販売や大豆の有機栽培、地域の豆腐店の事業承継へと、どんどんフロンティアをひらいていく小野さんの物語です。
◆自由と自立「一国一城のあるじ」になる
小野さんは幼い頃、東京のベッドタウンである茨城県取手市に引っ越してきた。大手電機メーカーの研究員だった父親の転勤が理由だった。
小学校の頃は、いじめとイタズラで学校に呼び出しをくらう典型的な「問題児」。高校に入ると、プロボクサーを養成するボクシングジムに通った。今思えば、ありあまるエネルギーを持て余していた。
いつしか「自分の力で生きていきたい」と思うようになっていた。東京の大学に進学が決まり、1人暮らしが始まる。
「バイト6割、学業3割、遊びがちょっと」の大学生活。家庭教師やピザの配達員もやったが、土木工事のアルバイトに好んで通った。体を動かすのが好きだったこともあるが、1日でしっかり稼げることが大きかった。
生活費に加えて、あこがれだったカワサキの大型バイク「エリミネーター900」を手に入れ、維持費に月5万円が必要だった。
バイトを通して、少しずつ社会の厳しさに触れる中で、「実業家になりたい」という気持ちが芽生えてきた。自由に、そして自立して生きる。誰かの言いなりになるのではなく、自分の足で立つ。それを実現する道だと思えた。「自由と自立」は、その後も小野さんの考え方の背骨になった。
まさかの「豆腐屋を継いでくれ」義父の願い
実業家という夢は固まったものの、起業するには資金が足りなかったため、大学卒業後はひとまず就職することにした。1995年、就職先に選んだのは、大手商社系のリース会社。オフィスを新宿の超高層ビル街に構える「ザ・大企業」だ。大企業の仕組みをみてやろうという気持ちもあった。
企業が保有する車両を、リースに切り替えてもらう営業に走り回った。同期入社でトップの営業成績を上げたが、その会社にとどまるつもりはなかった。
2年目に入る頃、輸入雑貨のインターネット通販の代理店事業を始めた。当時は副業禁止だったから、会社には内緒にした。
夜、自宅に帰ってから作業をする。本業を超える収入を稼げたが、ほとんど寝ずに出社する日々。昼間の会議で居眠りするようになり、上司に呼び出されて「お前、仕事が嫌いになったのか」と叱責された。会社に「これ以上迷惑はかけられない」と悟った。
会社をやめ、ネット通販事業で生計を立てる中で、中学生の頃に同級生だった女性との結婚を決意した。98年秋、結婚の許しを得るために、彼女の実家、染野家を訪ねると、「意外な申し出」を受けた。
「染野の名前と、豆腐店はどうする」。義理の父となる賢吉さんが切り出した。染野家は江戸時代には豪商だった地元の名家。その名字を引き継いでほしいという気持ちは分かった。それにしても、豆腐店を継げというのは、どういうことだろう。
彼女は2人姉妹の次女で、家業の染野屋豆腐店に後継者がいないことは聞いていた。とはいえ、家族経営の小さな豆腐店。結婚するからといって、自分が継ぐなんて思いもしなかった。
全くの不意打ちに、とりあえず「長い目で考えさせてください」と答えて、その場を収めた。帰り道には、結婚を認めてもらえた安堵(あんど)感で、豆腐店のことは、すっかり頭の中から消えていた。
ところが、事態は急転する。結婚から2カ月後、義父の賢吉さんが急死したのだ。「お豆腐屋さん、少しでも続けられないかな」。義母節子さんの言葉が心に響いた。親類から「豆腐店って1000万円ぐらい、もうかるらしいぞ」と声をかけられ、ゲンキンにもやる気に火が付いた。「一国一城のあるじ。これが自立への道だ」。ネット通販の仕事と、二足のわらじでやっていこうと思い立った。
自分の足で売る…「移動販売」イノベーション
1999年1月、豆腐職人として初めての朝を迎えた。節子さんが賢吉さんの遺影を掲げて作業を見守った。しかし、豆腐どころか料理を作ったこともないし、どんな豆腐がおいしいのかも分からないところからのスタートだった。
見よう見まねで作るたびに、先代の賢吉さんのお豆腐で育った妻に食べてもらい、感想を聞いた。次第に、大豆を粉砕してドロドロにした「生呉(なまご)」の炊き上げ方にコツがあることが分かってきた。
どういう曲線で火加減を操作すれば、甘みを引き出せるか。約1カ月の試行錯誤で、商品として出せるできばえになった。
豆腐は作れるようになったが、計算違いもあった。実際に店を継いでみると、主な販売先は学校給食と地元商店で、年間売上高は1000万円どころか、300万円ほどしかなかった。これでは、家族の生活を支えてはいけない。
もう一つ、豆腐は日本伝統の健康食なのに、米国産大豆や薬品会社の凝固剤が使われていることに違和感を持った。「自分のやり方でやってみたい」。大豆は国産に、凝固剤は天然にがりにそれぞれ切り替えることにした。今でこそ珍しくなくなってきたが、当時は業界のはしりだった。
しかし、問題があった。それまでは豆腐1丁を110円で販売していたが、国産大豆を使うと採算が合わない。1丁200円で売ることにしたが、従来のお客さんに2倍近い値段で売るのは難しい。そこで思いついたのが、豆腐を売り歩く「移動販売」だった。
初めての試みだったから自信はなかったが、倉庫からホコリをかぶったラッパを探し出し、自家用車に5000円分の豆腐を積み込んで市内を回ると、親しいお客さんの強い応援もあり、あっという間に売り切れた。
「若いのに偉いわね」「近所にも声をかけてあげるわよ」と口々に声をかけられた。これまでに感じたことのない手応えだった。
自分では自分の仕事をやっているだけのつもりだったが、こんなに応援してもらえるのは、なぜなのだろう。日本の伝統食品を国産大豆で作ってほしい。若者の力で地元の産業を支えてほしい。心の底で多くの人が待ち望んでいたのだ。
「歴史が応援してくれている」。自ら作った商品を、お客さんの顔を見て、会話をしながら、手渡しで売っていく。移動販売はその後、「近所のお豆腐屋さん」だった染野屋の売上高を10億円超に押し上げていく販売イノベーションになった。その根っこには、ラッパの音とともに売り歩く古くからの豆腐の売り方、そして伝統産業を支えたいという人々の思いがあった。
◆「50歳差の親友」がくれた歴史を背負う決意
しかし、継いだばかりの頃の売上高は年間300万円。それから5年がたち、移動販売を口コミで広げて、じりじりと売り上げを伸ばしたが、家族の生活を支えるには不安だったから、輸入雑貨のインターネット通販の仕事も続けていた。
むしろ、心の中では「ネット通販がメインで、お豆腐屋さんはサブ」だった。
新生・染野屋の立ち上げを、収入面で支えていたネット通販の仕事をやめると決めたのは、一冊の本がきっかけだった。「ユダヤ人大富豪の教え」(大和書房刊)。ユダヤ人大富豪が、「自分が何をやりたいのかよく分からない」と悩む日本人青年と語り合う内容だ。
その本から、こんなメッセージを受け取った。「自分が本当にやりたいことを見つける最良の方法は、今やっていることを愛すること。そうすれば、自分の道が見つかる」というものだった。
「二足のわらじ」を脱ぐ……選んだのは豆腐店
通販事業と豆腐店の「二足のわらじ」。自分が愛せると思ったのは自然と、染野屋の方だった。2004年、通販の仕事はやめ、染野屋に専念すると決めた。
まずは目立つ場所に、店舗を出したい。取手市で最も集客力があるのは、JR取手駅の駅ビルだ。
アポイントの入れ方が分からず、駅ビルの受付に行って、「お店を出したいんですが、どうしたらいいんですか」と尋ねるところから始まった。後で分かったことだが、JR東日本の駅ビルに個人事業主が出店した例は、それまでゼロ。それでも担当部長の計らいで、催事として臨時の店舗を出せることになった。
忘れもしない2004年2月26日の開店初日。未明から自分と義母で作った豆腐を、駅ビルの店舗で妻が売る。移動販売の合間に、駅ビルに寄って商品を補充した。てんてこ舞いになりながら、とにかく多くの人に試食してもらい、おいしさを伝えて、1丁200円の豆腐を売る。どこまで売れるか不安だったが、準備した5万円分の商品が、閉店2時間前に売り切れた。
それまで1日の売り上げは、妻の実家にある本店で5000円、移動販売で2万5000円。そこに5万円が上乗せされる計算になった。「やる気さえあれば、どんどん売り上げを伸ばせる」。そう確信した瞬間だった。
「今日から俺の工場」先代当主との衝突
初の駅ビル出店により売り上げは倍増したが、今度は生産能力の不足が問題になった。新工場を建設できるだけの手持ち資金はなく、金融機関から融資を受けられるアテもない。このままでは事業拡大のチャンスを逃がしてしまう。そう悩んでいたとき、「本家」から願ってもない提案が舞い込んだ。
実は、小野さんが継いだ染野屋は、江戸末期の文久2(1862)年に創業した豆腐店の分家にあたる。本家は同じ取手市内にある「半次郎商店」。その本家が後継者不在のため、工場の借り手を探しているという。
「うちに貸してください」。本家七代目の染野青市さんに頼み込んだ。その頃、青市さんは既に80代半ば。息子に先立たれ、何年も前から後継者不在に悩んでいたから、快諾してくれた。
本家の工場のおかげで、生産能力と従業員を確保できた。しかし、勝手知ったる分家の作業場とは、大豆を炊き上げる釜も違えば、従業員もひっきりなしに行き来する。本家工場の初日、小野さんは落ち着かない気持ちになっていた。アドバイスしようとする青市さんを「そうじゃない」と退け、しまいには「今日から俺の工場なんじゃい」と怒鳴り声をあげていた。
本家「半次郎商店」と分家「染野屋」が統合するにあたり、双方の歴代当主が引き継いできた屋号を「染野屋半次郎」とするという青市さんの提案も「お客さんが混乱する」と袖にした。
「交流10年」七代目半次郎が残した思い
それでも、月1回は本家の先代当主である青市さんを訪ね、話を聞くことにした。最初は50歳以上も年が離れ、耳の遠くなった青市さんと話すのは骨が折れたし、何かにつけて「ご先祖様のおかげ」と言うのも何かピンとこなかった。
しかし、次第に、やさしくユーモアのある青市さんの人柄に引かれていった。聞けば、大正生まれの青市さんは、自ら志願して第二次世界大戦に出征し、シンガポール陥落の際にその場にいたという。
戦時体験に加え、引き込まれたのは、江戸時代から続く歴代当主の逸話だ。青市さん自身も豆腐職人として、燃料が薪からガスに変遷する時代を生き抜いてきた。その経験をとつとつと語った。
自立して生きるため、とにかく成功するために走り続けてきた自分。それに対して、青市さんの話を聞いていると、皆が互いを気遣い、助け合って生きていた「江戸」の空気を吸い込んでいるような気持ちになった。早くまた会いたい、早く話の続きを聞きたい――。いつしか青市さんは「親友」になっていた。
「自分の代で半次郎商店を途切れさせては、ご先祖様に顔向けできない」。青市さんが繰り返す言葉も心に染みこむようになった。最初は「本家も継いであげますよ」だった気持ちが、「ぜひ継がせていただきたい」に変わっていった。
2014年7月、小野さんは八代目「染野屋半次郎」を襲名する。青市さんとの10年がかりの交流で、150年を超える歴史を最低限吸収できたと感じたからだ。「この日が来るまで死ねない」と言っていた青市さんの晴れやかな表情が忘れられない。
その3カ月後、96歳になっていた青市さんの体調が急変する。知らせを受けて駆け付けた病室で、青市さんの手を強く握り締めた。
でも、何も言葉が出てこない。本当は「もう大丈夫」「これから一緒に事業を大きくしていこう」と言いたかったが、何か言葉を発したら、「さよなら」になりそうで。10年間の思い出があふれて、こらえた涙が止まらなくなりそうで。
「悔いはねえよ。あとは任せたよ」。それが青市さんの最期の言葉だった。「歴史を背負っていく」。小野さんはそう決意した。
◆売上高10億円!「優等生企業に」狂い始めた歯車
江戸時代から続く本家筋の「半次郎商店」の工場を借り受け、生産力を大きく拡大した2004年。小野さんはそれまでの5年間、自分一人でやってきた移動販売を増強すると決めた。
工場の費用を賄うには売り上げを伸ばす必要があったからだが、店舗の開設ではなく、移動販売の増強を選んだのは、自ら作った商品を、お客さんの顔を見て、手渡しで売っていく方法にほれ込んだことが大きかった。
実は、本家工場を使い始めた頃、一時的にお豆腐の味が落ちてしまった。豆腐作りは、大豆の炊き上げ方が命だ。
当然ながら、本家工場の釜は、それまで妻の実家「染野屋」で使っていた釜とは違う。大豆の甘さを引き出す炊き上げ方を改めて習得しないといけなかった。
そのコツをつかむのに時間がかかる中でも、移動販売のお客さんは「釜が変わったら、味が落ちても仕方ない。応援してるわよ」「早くおいしいお豆腐にしてね」と待ち続けてくれた。
「移動販売こそが染野屋だ」と思うようになった。
移動販売の軽トラを初年度に4台、翌年度には10台超と増やしていったが、「毎月のようにパトカーのお世話になった」。社員のなかには「電卓を使ったことがない」「漢字を書けない」という人もいて、宅配便のトラックと道路の譲り合いでけんかになったりして、警察に呼び出されることが少なくなかった。
「俺は何屋だっけ?」と思うこともあったが、かつての自分と同じように、ありあまるエネルギーを持った社員たちが大好きだった。戦国時代の武将、蜂須賀小六が野武士集団を形成したように、「社会に組織されていない『一匹オオカミ』が集まってくることに、ワクワクを感じていた」
そんなヤンチャな社員たちを率い、3年後に移動販売車は20台に増え、4~5年目には県境を越えて千葉、埼玉に進出。8年目には売り上げは年間10億円を超えるようになった。
削られていく「ヤンチャの力」
ありふれた「近所のお豆腐屋さん」が、売り上げ10億円の企業に飛躍した。次のステップとして、株式上場を意識し始めた。上場すれば倒産リスクは下がり、社員の社会的信用も高まると考えた。上場準備の担当者を置き、社内体制の整備に入った。
正確な決算報告をするため、そして業務上のミスをなくすため、社内ルールを整備していく。
「立派な企業にならないといけない」という強迫観念からか、管理部門のスタッフが新人に「エレベーターは肩書が偉い順に降りる」という指導をし始めた。その時は気づかなかったが、強さの源泉だったヤンチャな社風とは、正反対の方向に会社が向かっていった。
そこに、2011年の東日本大震災が追い打ちをかける。本拠地の茨城県取手市を含むJR常磐線沿線は、原発事故の風評被害に見舞われた。
「あなたのところ、取手でしょ。もう買わないから」。お客さんから面と向かって言われるようになった。売り上げが減少に転じたのに加え、東北地方からの供給停滞や天候不順が続き、国産大豆の価格が高騰。一気に赤字に転落した。
風評被害を払拭(ふっしょく)するため、静岡に第2工場を購入したのに続き、世界的な健康志向の波に乗って、欧州市場に進出する計画も進めた。
しかし、どこに向かおうとしているのか、会社の軸が見えなくなった状態では、何をやってもうまくいかなかった。4年間にわたる赤字の垂れ流し。真綿で首を絞められるように追い詰められていった。
「あと2カ月で」…破綻の淵に立たされて
「どう計算しても2カ月後には給料が払えなくなる」。2018年の年初。あてにしていた資金繰り計画が頓挫する。染野屋の株式を大手企業に引き受けてもらい、傘下に入ることで資金繰りを安定させるつもりだったが、出張中のパリで「この話はなかったことに」と突然言い渡された。
その瞬間、胸のつかえが下りたような気がした。社員一人一人が自立して動く「一匹オオカミ」の集団を作りたくて、染野屋を経営してきた自分が、大手企業に身売りをしたいはずがなかった。「破談になればいい」と、心のどこかで願っていたのだ。
万策尽きて、社員たちに倒産の経緯を説明する――。そんな未来は、どうしても想像できなかった。なにしろ、染野屋は江戸末期の文久2(1862)年創業の老舗なのだ。本家先代の染野青市さんとの10年間の交流を経て、八代目「染野屋半次郎」を襲名した自分が、その歴史を終わらせるわけにはいかない。「絶対に潰せない」。時間はあと2カ月しかなかったが、「今までできなかったことをすべてやろう」と決意した。
パリから帰国すると、すぐさま各地の営業所をテレビ会議システムでつなぎ、社員たちに「君たちは染野屋ファミリーだ。とにかく信じている。愛している」と熱く語った。
幼い子どもを会社に連れてくることを認める「子連れオオカミプラン」という働き方を導入したり、一人一人の誕生日を祝ったりと、社員たちを家族のように考えはじめると、営業所の雰囲気が明るくなり、結束が強まった。
販売成績が優秀な社員には「エメラルド」「サファイア」といったピンバッジを贈呈し、社員みんなにそれを知らせることにした。現場の動きを鈍らせていた社則も廃止した。
かつては営業所を回っても、直立不動で緊張していただけの社員たちが、この頃には、小野さんのところに駆け寄ってきて、口々に販売拡大や経費削減のアイデアを提案するようになった。社員たちの笑顔ときびきびした動き。何年も歯車がかみ合わなくなっていた現場に、エネルギーが満ちていくのを感じた。
再びつかんだ「自由・自立」の社風
「この危機を乗り越えたら、本物のチームワークが手に入る」。その思いが現実になった。2018年3月、売り上げ増と経費削減の効果で、何とか資金繰りがつながった。そして翌年度、染野屋は過去最高益を記録する。
すべての営業所、すべての部門の業績が改善したのは、この再生劇が、誰か一部の社員の頑張りではなく、全員の結束によって生まれたことを物語っていた。
今振り返ると、経営危機は「染野屋を『本物』にするために用意されていたのではないか」と感じる。かつては、社員たちが意識することなく、ありあまるエネルギーを発揮して、自分の判断で動き、販売を伸ばしていた。しかし、当時は、自分たちの持つ強さを自覚できていたわけではなかった。
加えて、危機を経て「ファミリー」である社員たちの境遇をより深く考えるようになった。ヤンチャな社員たちは、内に秘めたエネルギーが強いがゆえに、偏差値競争を強いる学校や社会という「型」に拒絶感を感じ、エネルギーを注ぐ先を今まで見つけてこられなかったのではないか。
ならば、染野屋を、そんな「一匹オオカミ」たちが、チームとして協力することで、より大きく成長できる場にしよう。
いったん見失った自由・自立の社風。それを自らの手で取り戻した時、染野屋は一回りも二回りも強いチームになっていた。
◆江戸時代から続く歴代「半次郎」が導いた運命の道
1999年に妻の実家、「染野屋」を継ぎ、後継者不在だった本家筋の「半次郎商店」も承継した小野さん。10年たつ頃には、移動販売の軽トラを次々に増やして関東から東海へ進出を果たした。
「あとはこの仕組みを全国に敷き詰めるだけ」。会社は上り坂のまっただ中だったが、途端に先が見えたような気がして、やる気が下がっていくのを感じた。「こんな気持ちで経営を続けて良いのだろうか」と鬱々とした。
今から振り返れば、経営を軌道に乗せるため追い立てられていた日々が去り、新たに自分を奮い立たせてくれる何かを探していた。
転機になったのは、2009年、長女の誕生だった。そしてこれを機に深刻化する地球温暖化や環境汚染の問題について学ぶうちに、「こんな時代に生んで申し訳ない」とも思うようになった。
社会に影響を与えられる大人として、何もしないわけにはいかない。ある日、ポール・マッカートニーさんが、週1回、肉を食べるのをやめる「ミート・フリー・マンデー」という活動を提唱していることを知った。
環境負荷の高い食肉生産を減らすため、食事を植物性たんぱく質に切り替えていけば、地球環境の保護につながる。
「青い鳥はすぐそばにいた」。たんぱく質の宝庫である大豆を原料に、肉のように食べられるオカズを開発、浸透させて、持続可能な社会を作る――。会社経営の目的を見失いかけていた小野さんに、新たな「使命」が舞い降りた。
新たな使命「大豆は世界を救う」
最初に取り組んだのは、お豆腐を加圧・脱水して肉のような食感にする技術の開発だった。数年間の試行錯誤の末、ナゲットと間違われるほどの商品に仕上げて、大手商社の社長を招く試食会にこぎ着けた。しかし、勝負をかけた、その日に大失敗した。肉そっくりな食感になるはずが、普通の豆腐のようだった。
いつもと同じように加圧・脱水をしても、日によって食感が大きく異なり、成功したり失敗したりするのが、この技術の難点だった。食感が大きく変わるのは、大豆を炊き上げて液体にする工程の微妙な違いにあるようだった。豆腐作りと同様、その日の気温や湿度によっても影響を受ける。商品化の道筋は見えなかった。
環境破壊は日々、進んでいる。一日も早く商品を世に出すため、自社製にこだわるのはやめた。大豆の植物性たんぱく質を繊維状にして固めることで、肉のような食感にした「大豆ミート」を他社から仕入れ、商品化することにした。
しかし、大豆ミートをおいしく食べるには、調理にコツと時間が必要だ。そこで、特殊な調理法を開発し、味付けも終えた冷凍食品「ソミート」として売り出した。
忙しい人でも湯煎するだけで、すぐに食べられる。あぶり焼き、しょうが焼き、唐揚げ、ひき肉と、商品の種類を次々に増やし、小売りや外食業界との連携を進めている。
廃業する豆腐店を継ぐ!「染野屋は輩の養成所」
1960年ごろ、全国に約5万の豆腐製造業者がいた。それが近年は約8000。一方で、生産量や消費量はあまり変わらない。つまり、規模の小さい「近所のお豆腐屋さん」が大きく減った。後継者が見つからず、廃業したケースも少なくない。
妻の実家、そして本家の豆腐店を継いだ小野さんのもとには、「廃業するお豆腐屋さんを継いでほしい」という提案が舞い込む。
2018年に経営危機を乗り越え、チームとしての強さを手に入れた今、「染野屋を豆腐店を継ぐ輩(やから)の養成所にしたい」と考えている。
移動販売にはこだわるつもりだが、事業承継した豆腐店を自分の色に塗り替える考えはない。それまでの屋号を残し、あくまで「継ぐ」という形にする。
染野屋で育った「一匹オオカミ」のような社員たちが、地域で何十年も続いてきた豆腐店を受け継いでいく。2021年、後継者難に悩んでいた石川県白山市の豆腐店「山下ミツ商店」の事業を引き継ぎ、この夢も形にした。
「なぜ自分はここに…」不思議な出会い
ヤンチャだった自分が、「婿殿」として近所の豆腐店を継ぎ、これほど心血を注ぐことになるなんて。人生は不思議だと思う。
しかし、一つ思い当たることがある。小学4年か5年の頃、通学路の脇にあった花壇にカンナの花が植えてあり、「かわいがってくださいね」という看板が立っていた。「じゃあ、かわいがってやろう」。いたずらっ子だった小野少年は看板をなぎ倒し、花壇もメチャクチャにした。
その約20年後。結婚したばかりの妻がふと「ここに花壇があったの、覚えてる? お父さんと一緒に植えて、看板も立てたのに、誰かが壊しちゃって。ひどいことをする子がいたんだよね」とつぶやいた。
「それ、俺だ」。もし、結婚前に義父がそのことを知っていたら、結婚を許してくれなかったかもしれない。「なぜ自分はここにいられるんだろう」と考え込んだ。
思い返せば、「一生結婚しない」と公言していた自分が、中学校以来、久しぶりに妻と会った瞬間、雷に打たれたように感じた。性格が合うわけでもなかったが、結婚を即決し、その半年後には染野屋を継ぐことになった。
これは、江戸末期から続く「歴代半次郎の仕業」に違いない。花壇を壊す小野少年を見て「こいつはエネルギーの塊。見どころはあるが、使い道が分かっていない」と目を付けた。そして分家の娘と結婚させ、本家も継がせた。
七代目の染野青市さんとの出会いと別れ、そして経営危機という苦難を与えながら、小野さんを八代目染野屋半次郎として育てた。小野さんはそんな不思議な力を感じている。
「自分の道は自分で切り開く」と思ってきた自分が、実は運命に導かれていたのかもしれない。「今ならはっきり言える。自分なら日本の伝統、忘れかけた『本物』を、豆腐屋を通して形にできる気がする」
(初出:毎日新聞「経済プレミア」2021年5月11日~6月1日)
▼ Refalover(リファラバ)とは?