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エレーヌ・グリモー『野生のしらべ』

訳者:北代美和子

🌺どんな本か

この本は神秘的で慈愛的な表紙から想像するほど、ハートフルな本ではありません。

自分らしさを貫く芸術家による、遠慮のない本音が綴られます。

ちなみに、表紙に出てくる狼に関するパートは後半の一部であり、大半を締めるのは幼少期から狼との出会いまでの半生です。

芸術家、音楽家、ピアニストの苦悩と生き様を知る恰好の良書だと思います。

🌺以下、本書の内容と印象的な発言を時系列でまとめました

エレーヌ・グリモー

1969年、フランスのエクス=アン=プロヴァンスで生まれる。

🌿小学校時代

小学生の時から「言うことを聞かない」「手に負えない」子供だった。

友達がおらず、男子たちが行う弱い者への暴力を嫌悪。

犬や猫が好きで、自然を愛した。

このような背景から、獣医か弁護士になりたかった。

自然への愛をこう語る。

「この疎外感を感じない場所がひとつあった。カマルグ〈ローヌ河口のデルタに広がる沼沢地〉だ」

「あらゆる場所で、自分は不協和音だと感じていたのに、そこでは反対に、私は壮大な和音に加わっていた」

「私は自分が馬であり、風であり、荒れ狂う潮であり、甘やかなヒヤシンスだと感じる。私は波のなかを転げまわる。ようやく自分たちのからだと友情を結び、女の子でもなく、男の子でもなく、単純に、完全に、驚異的に、私はただ生命に満ちあふれていた」

孤独な小学生時代を支えたのは、動物、自然、そして本。

デュマ、トルストイ、ドストエフスキー、聖書を読んでいた。

しかし、強迫性障害と自傷行為にも悩まされる。

対称性の強迫性障害。

本の両側には同じ数の鉛筆。

そして自傷行為にも対称性を求める。

右手を切ってしまったら、左手をわざと切る。

当然、両親を悲しませ、学校の先生たちからは「憂慮すべき」との判断を下される。

しかし、強迫性に感謝している側面もあった。

「音楽は私に合っていた。音楽家であるならば、強迫的な性格でなければならないからだ。どんな活動でも完璧の追求が要求されるものには、生まれつきの強迫的な性格が必要であり、音楽も同様だ」

強迫性の自傷行為の対策として、バレエ、柔道、テニスを習わされるも、すべて身にならず、父親が音楽教室に通わすことを提案する。7歳だった。

フランソワーズ・タリという先生の元で歌と打楽器を教わり、本物の才能があると言われ、ピアノを習うことを勧められ、ジャクリーヌ・クルタンを紹介される。

ピアノについてはこう言う。

「ピアノを相手にしているとき、私は楽しみから幸福へ、発見から啓示へ、歓びから自由な肉体の解放へと到達した」

また、チェロが好きで、

「二度ほど、ピアノよりもチェロをやりたいと思ったことがある。なぜならばこの弦楽器を弾くことは完全な肉体的抱擁を意味するからだ」

🌿11歳

エクス音楽院への入学を認められる。

そして、マルセイユ音楽院の学院長を務めるピエール・バルビゼに出会い、演奏を絶賛され、パリ国立高等音楽院の受験を勧められる。

バルビゼのことは恩師のように思っており、

「あの年齢ではすぐに理解できなかったものの、私はバルビゼがなにをあたえてくれたのかを悟った。私たちは私たちの運命によって詠唱される音楽だ。譜面を解読して演奏できようができまいが、ひとりひとりがひとつの鍵をもつ」

パリ国立高等音楽院の入学試験では、ショパンのピアノソナタ第二番と第三番の第一楽章を演奏。

左利きであるグリモーのショパンへの愛は、

「私はショパンの音楽を、なによりもまず左手をピアノへと解放した熟練の技をかぎりなく愛する。この『右手使い』はショパンによって生命を見出し、解放され、自分を認めさせた。ショパンは両手使いの音楽を創造した」

🌿13歳

パリ国立高等音楽院に合格。この時、年齢制限はなかったが、翌年から満十四歳以上となる。

中学校は国立通信教育センターの通信教育を受けることにする。

パリ国立高等音楽院では、若すぎる年齢のため指導教授が見つからず苦労する。

パリではホームステイ先でお世話になる。

🌿14歳

パリ国立高等音楽院の二年生の終了時。終了試験を受ける。

課題曲はショパン、リスト、スクリャービンのエチュードだったが、長大な協奏曲やソナタを弾きたくてモチベーションが上がらず、練習を怠る。

そして指導教授に怒られ、地元に逃走し、ショパンのピアノ協奏曲第2番の譜面を広げる。

そして以前通っていたエクス音楽院で先生たちと上級クラスの生徒たちがオーケストラを作ったことを知り、一緒に練習することを志願。

学年末コンサートに向けて一緒に練習する、と同時に課題のエチュードの大切さに気づき、練習する。

そしてコンサート。

「まず、ピアノがあった。ピアノは舞台の薄明かりのなかで、感動のほほえみみたいに親しげに輝いていた。それからオーケストラの最初の数節が流麗なる対話のなかで、その澄みきった光を私に注ぎ、蒸気のようにはかなく消えていくその和音を私の手にのせた。同時に、私は完全に自分自身の手へと引き渡され、つなぎとめる鎖なしで、絶対的自由というまったく新しい、そして甘美にめくるめく感覚によって運ばれていった。音楽が私を解放した」

コンサートで弾いたショパンのピアノ協奏曲第二番と課題のエチュードは録音しており、テープを持ってパリ国立高等音楽院に戻るも、一か月以上の無断欠席の叱責を受ける。

テープをピアノの指導教授ジャック・ルヴィエの机に置いて部屋を後にする。

ジャック・ルヴィエがジャック・カントロフとの協奏で吹き込む予定のCDの曲目について話し合うために、DENONの主任プロデューサーだった川口義晴が訪れており、グリモーのテープを聴く。

そして録音したいという話になるも、プルミエ・プリ(卒業認定)を取得できる一年半後ということになる。

卒業試験は三週間前に今まで一度も手を付けていないレパートリーの中から課題曲をくじで引く。

プルミエ・プリを取得した者のみ、二年間の研究科に進める。

課題曲の中からラフマニノフのエチュードを選び、七人中五人が合格を出すも、二名からは「ラフマニノフを演奏するには早すぎる」と年齢差別を受ける。

結果的に研究科へ進む。

🌿15歳

アムステルダムでラフマニノフを録音するも、過度の緊張状態に苦しむ。

それ以降、グリモーは演奏前には精神統一をするようになる。

「肺を空にする。お腹で大きく息をし、酸素を吸い込む。自分の呼吸の流れを制御できるようになる。すると血液は異なる流れ方をする。私はこの呼吸法によって、自分の中心を意のままにできる姿勢をとり、自分の脳をアルファ相のなかにおく。同時に、メンタル・イメージを組み立てる。三つのことを想像しながら、意識を集中をする。スロットマシーンの三つのサクランボウのように、まず最初の一個、次に二個目、それから三個全部固定する。このテクニックは私をリズムのなかに巻き込み、ついには霊感へと至らしめる。」

録音はグリモー自身には欠点しか聞こえず、大きな落胆と悲しむを持つ。

チャイコフスキー・コンクールのパンフレットを見て、ラフマニノフやドストエフスキー、トルストイで培ったロシア愛が止まらなくなり、急遽出場を懇願。

しかし、指導教授の指摘通りレパートリーの無さなどから惨敗。

🌿17歳

研究科二年目。音楽院の籍を残したまま実家に戻った。

「自分の知識を発見し、音楽と完全に一対一で向かい合い、自分の実験をおこなうために、音と直線の小さな個人研究所を作り、大曲とのあいだでどのような対話が交わされるのか発見したかった。学歴のフィナーレを華々しく飾るために、研究科修了と国際コンクールの祝福を待つこともできた。けれども私は急いでいた。まっすぐな線、直線的なスタイルと言葉に対して、ほんとうの情熱を抱き始めた」

「もちろん、音楽院に残るのにも利点はあった。自分自身で考えることは一度もなかったのだから、よく考える努力をする必要はない。譜面をそのとおりに練習していれば、それで充分だった。つまずきの石が顔を出すと、どう避ければいいかを教えてもらえた。私の学習は、やさしいものから難しいものへと、うまく考えられた階段をのぼっていった。私は、私のために耕された地面、爪切りばさみで剪定された生け垣でふちどられ、バラの花が撒き散らされた道のうえを進んでいた。靴のなかに滑りこむ小石のひとつさえない。この几帳面で細々とした枠組みが私の息を詰まらせた」

独学していた時、登録していたマスター・クラスで、パリにやってきたレオン・フライシャーのレッスンがあると知り、前夜のコンサートを訪れる。

指揮はバレンボイムでラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』を聴き、オーケストラ全体に優る色彩に感心する。

レッスンの数か月後、バレンボイムからボルティモア音楽院にいるフライシャーの元へレッスンを受けに行くように勧められるも、拒否。

「私はひとりで進歩したい。完全にひとりで。私は自立したかった」

その後、他のマスター・クラスでホルヘ・ボレットに出会い「あれほどの並はずれた才能にも、あれほどの変わり種にも久しく出会わなかったね」と称賛される。

マネージャーが付くようになり、以前録音したCDが発売されディスク大賞を獲り、順風満帆なキャリアのスタート。

🌿20歳

ドイツ、スイス、日本、ロンドンなど国外でリサイタルをするようになる。

そしてロッケンハウス音楽祭でマルタ・アルゲリッチと出会う。

「マルタが私に伝えたもの? それはあれやこれやのピアノ奏法ではない。むしろマルタがマルタ自身になったように、私もあるがままの私にならなければならないという確信だ」

その後、感染性単核細胞症で自宅療養。パリのギドン・クレーメルの家に行った後、スイスのアルゲリッチの家に行き、そこにいた若い音楽家たちと過ごしながら読譜や読書をして過ごした。

無気力の中モンパルナスのマンションにいた頃、マネージャーからアメリカのコンサート・ツアーを打診され飛びつく。

ツアーはフロリダで終わり、タラハシーに住むことにした。

そこで地元民から避けられている町はずれに住む男デニスと狼に出会う。

「狼は柔らかな足どりで、私のほうにもどってきた。私は両腕をだらりと垂らしていた。狼は私の左手に近づき、そのにおいを嗅いだ。私はただ指だけをのばし、すると狼は自分のほうから私の手のひらに、頭を、そのあと肩をこすりつけた」

「その瞬間、私は電光のような火花を感じた。全身に電流が走る。特異な接触感が私の腕全体、私の胸を照らし、私を優しさで満たした」

「優しさだけ? そう、優しさのもつもっとも絶対的なもの、私のなかに神秘的な歌、見知らぬ原初の力の呼び声を湧きあがらせるもの。同時に、雌狼は緊張をといたように見え、あお向けになって横たわると、私にお腹を見せた」

🌿24歳~27歳

その後、動物行動学を学ぶために聴講生として大学の講義を受けたり、講演に出席したり、狼の生態と行動を研究している保護区を訪ねた。

狼の群れを保護して住まわせる財団と公園を創設するために、コンサート代はすべて貯金。

平均して月1回はヨーロッパに演奏で行ったが、それ以外はニューヨークの治安の悪い地区のワンルームアパートを転々とする生活。

ピアノはもちろん無く、スタンウェイ社に行くか、数時間の有料レンタルをした、お金が無かったので頭の中で稽古し続けた。

🌿31歳

ようやくスタンウェイDを所有。

ニューヨーク・ウルフ・センターを設立。

「現在、ピアノを弾くとき、ひとりぼっちだという感覚を抱くことはもう二度とない。『訪れ』の感覚がある。ピアニストが練習によってしているのは、『訪れ』の瞬間を準備することだ」

「私たちはだれも、血と肉とで作られた謎だ。いま、私はすばらしく満ち足りている。なぜならば自分のバランスを見つけたのだから。私は子どものころ、自分のからだを傷つけさせた対称性の問題を解決した。私は狼つまりもっとも野生的な自然と、もっとも洗練された音楽のあいだのーー天と地とのあいだのこの秘密の、個人的な、内奥にある接点を見つけた」

「私は絶えざる感謝の状態にいる。私をさいなむ唯一の疑問は、この状態を他の人びとの手に返すには、他の人びとにふたたびあたえるにはどうすればいいかということだ」

「それには私の責任がかかっている。ひとつの使命をもつというこの感覚は、一九九七年にサウス・セーラムに腰を落ち着け、狼たちがきて以来、だんだんと大きくなっていった。狼たちは世界と私を結ぶ絆を形作った。私が私自身として前進することを可能にした」

「一九九九年、センターには七百五十名の子どもが訪れた。二〇〇二年には八千五百人の子どもたちがやってきた。一九九七年以来の訪問者総数は一万五千人にのぼる」

「私が受け取るもっとも美しい報酬は、私が子どもたちを自分自身の一部ーー狼である一部ーーと触れあわせたとき、子どもたちが見せる歓びだ。それは自由を選ぶ自由、足を踏みはずす自由、自分がもつ唯一無二のもののなかで自らを選び、選択することを許す自由だ」

🌿感想と余談

ピアニストらしい詩的な言葉を紡ぐ人だと思いました。

そのため、そのままシェアしたくなり、引用が多くなりました。

私はこの本を読んだ一週間後、たまたま北海道の旭山動物園に行ったところ、狼を見ました。

レラ、ワッカ、ノチウの3頭で、名前の意味はそれぞれアイヌ語で風、水、星。

旭山動物園の狼

※近くまで来てくれたのは末弟のノチウだと思います

見た目は犬と似ていますが、犬に感じる可愛さは無く、自立した逞しさを感じました。

人間から見たら、ペットというよりも仲間みたいな感じでしょうか。

もののけ姫に出てくる勇ましいイメージそのままでした。

グリモーが狼を保護したくなった気持ちが少しだけ分かりました。

🌺オススメの演奏

ラヴェルのピアノ協奏曲の第二楽章。

https://youtube.com/watch?v=NRTWLQ4nI6Q

大地と動物を守る聖母のような神々しい演奏がぐっときます。

聴いていると宮崎駿の世界を想起するので、深いところで繋がっている気がします。

もののけ姫や、風の谷のナウシカを感じるのが不思議です。

🌿

※本書内において年齢や年代が分かりにくい部分があり、年齢の部分に誤りがある可能性があるため、今後、海外のWebサイトなどから新たな情報を得て加筆修正する予定です

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