ピーナッツ/天理教的なことを語るnote

ピーナッツ/天理教的なことを語るnote

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17.もしも神様の声がきこえたなら

本当の自分は元々悲観的な性分なもので、普段は布教して歩いてはいるけれど、実のところ、天理教の究極的な明るさというか、ポジティブに見えがちな風潮が、自身の根っこの部分では嚙み合っていないというジレンマを常に抱えながら今日まで生きて来た。 ほのぼの朗らかとしたぬくもりやあたたかみよりも、 “なぜ生きる?” “どう生きる?” …という悩みや問い、葛藤といった地底から汲み上げられてくるどこか重たい波動こそがむしろ重要な力の源泉でさえあった。 “陽気ぐらしの天理教” それなのに自

    • 16.ここが“最前線”

      「あ? テンリキョウ? また来たのか。あんたら次から次からやって来るな。同じ場所に一体何人来るんだ?」 ある日の戸別訪問先でそんな風に呆れ口調で言われました。どうも短期間のうちに別々の布教者の訪問が重なり、たまたま何度もこのお宅を訪ねて来たようです。 悪くない気がしました。もちろん、先方にとってはいい迷惑でしょうが…。 おぢばから遠隔にあるこの土地でそんな現象を見せられると、少しだけ背中を押され励まされた気分にもなります。  最初の頃は訪問先でのそういった迷惑そうな反応

      • 15.“ちょっとには弱い”ように思える

        ある講社祭が終わってからの直会でのこと。 そのお宅は関係者を集めてはちょっとした人数でおつとめをつとめ、それが終わるとお酒にごちそうにとテーブルいっぱいに料理を盛りつけた皿が埋め尽くし、それを集まった方々にふるまってワイワイにぎやかにやるのが昔からの習慣になっていた。 昭和の全盛期には七つの店舗を切り盛りする豪快な経営者だった講元さん、その頃にはもうすっかりいいご高齢のおばあちゃんだったのだけれど。いま(2012年当時)でも親戚兄弟が講社祭へと足を運び、昔のような直会風景の名

        • 14.病人さんの枕元で21日間元の理を読んでみたら

          二十五歳の頃に通い先としてご縁をいただいたとある老親子の話。 七十代(当時)の母と、統合失調症を患う四十代の息子さん、お二人とも私にとっておさづけをお取り次ぎする対象者だ。 母親はとても個性的な人だった。ラムネばあさんとでも呼ぼうか(ビー玉入りのラムネが好きな方だった)。息子さんはトモさん。 このご家族にまつわる珍エピソードが本当の数多く、親子とも介護施設入居にともなうお別れの日が訪れるまで約十五年間、関係は他のおたすけの通い先にも比べても一番長く続いた方々だった。 ラム

        17.もしも神様の声がきこえたなら

          13.本日の雑念(1)-間違いのない生き方とは-

          先日とある神殿講話を拝聴している時、その日の講話を担当していた先生が“間違いのない生き方”というフレーズを頻りに口にしていたのが何だか耳に残った。気にしているうちに、いつしか講話の内容が耳から遠のいていき、その言葉への問いだけが私を満たしていく。 間違いのない生き方…? “間違いがない”ってどういう状態…? いやそもそも、生きていく上で“間違い”とされるものって…一体何を指すの(´ー`)??  途端に思考モードに突入するピーナッツ。 こうなったら、納得のいく答えが見つ

          13.本日の雑念(1)-間違いのない生き方とは-

          12.教えてもらってばっかりの布教回想(2)

          ある住宅街の奥まったところに、裏に小さな畑がある年季の入った一軒家にひとりで暮らす九十三歳(執筆当時)のおばあちゃんがいた。ご高齢の為、きっと生活が大変なんだろうなと想像しながら庭先で雑談を交わしていると、案外そうでもないらしいご様子。 聞くと、彼女には大勢のお子さん(確か七人だったかな?)やその下にお孫さん、更に曾孫さんまで、その多くが市内中にいて、みんなおばあちゃんのことを気にかけて代わる代わる頻繁に顔を見にやって来てくれるので、特別不自由していることはないのだと言って

          12.教えてもらってばっかりの布教回想(2)

          11.“普遍的な境地”への憧憬

          三浦綾子というキリスト教文学の作家に一時期ハマり、彼女の代表的な作品ならある程度は読んでいる。 デビュー作の「氷点」に出会った時は正直おおいに心が揺さぶられたし、「塩狩峠」なんかは本気で大粒の涙をこぼして読み進めていた。その他もけっこう手に取ったほうなんじゃないかと思う。 三浦は若い頃に脊椎カリエスや肺結核などの病を患い、病床で、とあるプロテスタントの伝道者に導かれ、信仰の門をくぐることとなる。(ちなみにこの頃、天理教の布教者からもにをいがけされていたのだが、心に響くものが

          11.“普遍的な境地”への憧憬

          10.とにかく歩きまくって失敗しまくっていた頃の布教回想(1)

          私は二十代半ばから三十代後半まで、およそ十年あまりの当時をざっくりまとめると「とりあえず暇さえあれば戸別訪問かおさづけ取り次ぎ通い」的な時間の過ごし方を続けていました。 通う先がまだそんなに大してなかった頃は月のうち十日~十五日ぐらいはにをいがけに歩き、次第に通えるお宅、おさづけを取り次げる対象、様々なお手伝いをさせてもらったり、車に乗せてお相手の用事を済ます付き添いをしたり、ご年輩の独居生活者へのシンプルな見守り目的で顔を繋いでいたり、そういった先が二十件~二十五軒程度ぐ

          10.とにかく歩きまくって失敗しまくっていた頃の布教回想(1)

          9.賞味期限ってものがあるんだよね

          私は村上春樹という作家の作品が割と好きで、同じ小説でも二度、三度と何周も繰り返して読んでいた時期もありました。毎年ノーベル文学賞候補に挙げられながらも結局逃してしまい、そんな報道を観ていてその度にどこか肩透かしを食っているような気分にもなります。(個人的にはねじまき鳥クロニクルが好きです) そんな春樹さんなのですが、小説執筆の傍ら、数々の海外文学の翻訳を自ら手がけては日本に送り出す、優れた翻訳家としても一面も持っています。一部からはむしろそっちの顔の方が評価が高いくらいなん

          9.賞味期限ってものがあるんだよね

          8.息子の純真

          ある月明かりのきれいな夏の夜。 部屋の豆電球を消し、窓をあけて親子四人で布団に寝そべりながら、そんなまばゆい夜空を眺めていた。 おやさまのひながたの道中で語り継がれている、月夜の糸つむぎのエピソードが自然と口をつき、それに興味深く聞き入るこども達。まるでその当時のおやしきの情景が夜空に浮かびあがってくるかのよう。 そうしているうちに、それまで蒸し暑かった部屋は外から入り込む風によって次第に涼しくなり、やがて心地よい眠りへと誘われるようにまどろんでいく。 そんな夜もあった。

          7.おぢばでみせていただいた身上の障り

          先日、青年会のひのきしん隊入隊の為におぢばに帰った際、詰所に到着して程なく激しい悪寒に襲われました。あれよあれよという間に四十度超の高熱に。インフルエンザに罹患していました。 詰所の一室に隔離され、食事を運んでもらい孤独な隔離生活。せっかくのおぢばがえりなのに月次祭にも参拝叶わず、「畳一枚が己の住む世界」を体感する、ありがた~いひとときを過ごすこととなりました。 翌月はじめの百母屋入りも、分会の他のメンバーに数日遅れての入隊となりました。そうやって一か月間伏せ込ませていた

          7.おぢばでみせていただいた身上の障り

          6.事故っちゃった時の話

          教祖百三十年祭の年祭活動当時の過去話です。季節は冬。失敗談です。というか、基本的に私が言葉を紡ぐときは、うまくいかなかった時のことばっかり。 二月。 私はツルツルの雪道を法定速度内のスピードでゆっくり車を走らせていました。後部座席には三歳になる長男をベビーシートに載せていました。 すると、ちょっとだけ見通しの悪い十字路で、私から見て右方向から一時停止すべき場所を無視し、そのまま直進して私の車の前を強引に横切ろうとする車が勢いよく飛び出して来ました。 …うわ、コイツ、出て

          6.事故っちゃった時の話

          5.おぢばでの時間は理屈じゃない

          ※教祖百三十年祭の年祭活動当時の眠っていた過去の随想に息を吹き込んで書いています。季節錯誤なくだりには多少目をつぶってやってください(^_^;)  私の住む町は冬になると降る雪の量が比較的多い土地で、今年は特にも雪が多いような気がします。放置していると最終的に一階がスッポリ埋まるぐらい雪が降り積もるんです。 連日の除雪作業、それが終わるとご高齢の信者さん宅や、おたすけの通い先の雪片付け作業もお手伝いに行っています。 冬は本当にこの土地に住む者にとって修羅場なのです。 加

          5.おぢばでの時間は理屈じゃない

          4.“わかりやすさ”って何なんでしょう?

          先日、とある先生(教会長さん)に、私が編集に携わってるとある会報の内容に触れてこんなことを言われました。 「この頃ピーナッツくんが書いていることが段々難しくなってきたような気がするね。もっとわかりやすくて親しみやすい話を書いた方がみんなも手に取りやすくていいんじゃない?」 …と。 ヘイッ、承知しました('◇')ゞ‼ …とはならないのが、わたくしピーナッツ。癖強めです。 確かに、一般のようぼくさんや信者さんには難解な内容だったことは認めます。仮にそういった方から同様の

          4.“わかりやすさ”って何なんでしょう?

          3.「予定外」なことがもし起こったなら

          日々暮らしていると、生活の様々なちょっとしたところで、「予定外の事態」ということが起こるのはよくあるものです。 「今日はあれをしよう」 「これを夕づとめまでに終わらせちゃおう」 そんな風に漠然と頭の中で予定を立てていたとしても、急な用事を頼まれたり、妻が忙しくて、代わりに幼いこどもを見ててあげなくちゃならなくなったり…。 (もっとスムーズに物事が運べばいいのになぁ…(´Д`)) …なぁんて常々思うところなのですが、そんな時に、たまたま読んでいた天理教学の研究者・井上昭

          3.「予定外」なことがもし起こったなら

          2.バナナのゆくえ

          教会長である父と二人でおぢばに帰り、詰所に宿泊していたある夜の出来事。上級の教会長さん達が泊まっている部屋に、部内の会長さん達も集まり、みんなでワイワイにぎやかに酒宴が開かれていた。 父と私は事前に近隣のスーパーで買い物をし、その酒宴に差し入れるものを探していた。 「これを買って持っていこう」 そう言って父が手に取り買い物かごに入れたのは、ひとふさのバナナだった。その時の私は内心 (飲み会にバナナを持って行っても、誰も食べないと思うんだけど…) そう思ってそれを黙って見