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15.“ちょっとには弱い”ように思える

ある講社祭が終わってからの直会でのこと。
そのお宅は関係者を集めてはちょっとした人数でおつとめをつとめ、それが終わるとお酒にごちそうにとテーブルいっぱいに料理を盛りつけた皿が埋め尽くし、それを集まった方々にふるまってワイワイにぎやかにやるのが昔からの習慣になっていた。
昭和の全盛期には七つの店舗を切り盛りする豪快な経営者だった講元さん、その頃にはもうすっかりいいご高齢のおばあちゃんだったのだけれど。いま(2012年当時)でも親戚兄弟が講社祭へと足を運び、昔のような直会風景の名残りがまだその家には辛うじて見ることができた。

訪れた客のひとりが、若い頃の会社勤めしていた当時の昔の思い出話を語り、私は隣で適当に相槌を打ちながらそれに耳を傾けていると、傍にいた別のご婦人が不思議そうに、

「ところであなた、普段はどんなことをしているの?」

と、不意に質問を投げかけてくる。
その方はご主人が講元さんの弟さんで、天理教に一応の理解はあるものの、明確な信仰心があってこの場にいるわけではなく、親戚づきあいの延長で毎月義姉の講社祭に夫と共に足を運んでいるような人だった。

咄嗟の問いかけに、気の利いたうまい説明をしあぐねるピーナッツ。

基本的にほぼ毎日のように戸別訪問してまわっています…(^_^;)エーと

「まわって歩いて、話を聞いてくれる人いるの?」

…ほっとんどいないです(;'∀')💦

「…あなた、一度教会を出て何年か社会勉強した方がいいんじゃないの?」

言葉が出なかった。


布教の家生活を終えて既に数年が過ぎていた。
とにかく戸別訪問一辺倒で歩いている。
が、未だに目に見える大きな成果らしい成果もなく、おたすけ等の進展も見えない。忙しいと言えば忙しいのだが、そこに理解を持たない傍の目から見たら、何もやっていない人のようにも映る。

辛い。

そもそも布教に費やされる時間というのはスキルアップの実感が薄く、一体そこで何が収穫されているのか、可視化は非常に難しい。

“まだ若い”“これからだね”
なんて周囲から言われながらも、年齢をひとつ重ねる度にうっすらと焦りがにじんでくる。せめてもう少しハイレベルなおたすけのケースにでも絡めていられたならまだいくらかは自信を持てるのだが…。

友人との電話

そんなことがあったんだって話を、遠方の友人・アーモンド君に電話で話すピーナッツ。
彼は私と同年代、ともに厳寒の北国に生き(アーモンド君の方がもっと厳寒)、同じ年に別々の布教の家に進み、終わってから更にもう一年布教地で単独布教し、現在は大教会で青年勤めに伏せ込んでいた。

ほんと、“一寸には弱いように皆思う”立場だよね、お互い笑」

この電話のちょっと前まで、台所でひとり黙々とじゃがいもの皮むきに時間を費やしていた彼もまた彼なりに、そんな自らに矢印を向けて発した一言だったのかもしれない。 

しかしながら、おかきさげの一節を引用したアーモンド君の何気ない返答に、私は思わずハッとなる。

常識人の視点から見れば、私が毎日していることも、アーモンド君の日々の生活も、確かに軽んじられても致し方ない「もっといいやり方があるんじゃない?」「常識的に見て、もっとすべきことがあるでしょう?」と、ちょっと弱いような道中なんだなというとらえ方ができる。

だけど、その次に続く“誠より堅き長きものは無い”という下りへと無事に結びついていくような(私はこれっぽっちも誠の人ではないけれど)、堅く、長い、確かな次の景色を見ようと歩みを進めていくのであれば、やっぱりその過程で待っているのは「誰が見ても褒めてくれる」だとか「誰が見ても納得、貢献的」だとか、そういった表から見ても裏から見ても見栄えするところではなく、やはり“一寸には弱いように皆思う”を必ずどこかの段階で通っていくことが避けられないのだろう。

そして今はまさに、そんな時期なんだ。

…とこれはあくまでも個人的な悟り。
「おかきさげのその引用は的確ではない」と、解釈は銘々異なるから、ここまで読んでこんな結論の持って行き方に“同意しない”という方もおそらくきっといるだろう。でもまあいい。

迷いながらでいい。
苦しみながらでもいい。

ひたすら自問自答の時間を重ねて、まだ見えてはこない新境地を信じてやっていこう。

【2012.5】


二十代の、青さの残る時期の残影でした。
アーモンド君も、今や詩的で軽やかな文体をもって教内文筆陣の一角を担う存在としてご活躍されていますしね。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
それではまた(^O^)

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