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2.バナナのゆくえ
教会長である父と二人でおぢばに帰り、詰所に宿泊していたある夜の出来事。上級の教会長さん達が泊まっている部屋に、部内の会長さん達も集まり、みんなでワイワイにぎやかに酒宴が開かれていた。
父と私は事前に近隣のスーパーで買い物をし、その酒宴に差し入れるものを探していた。
「これを買って持っていこう」
そう言って父が手に取り買い物かごに入れたのは、ひとふさのバナナだった。その時の私は内心
(飲み会にバナナを持って行っても、誰も食べないと思うんだけど…)
そう思ってそれを黙って見ていた。
案の定、酒宴のテーブルに置かれたそのバナナは、誰からも手をつけられることなく、ポツンと最後までそこに残っていた。
数日後、おぢばから教会に戻ってすぐのこと。
私は、以前から繋がりが続いていたおたすけの通い先に足を運ぶと、その家に住む八十代のおばあさんから
「神様にお供えしてください」
と、彼女が事前に買っておいたそれを台所から持って来て手渡される。
それは、ひとふさのバナナだった。
教会に帰ってから神饌場の台の上に預かってきたバナナを置くと、暫しそれをじっと見つめながら様々な思案が巡ってくる。
先日の父が買って持っていたバナナと、通い先からいただいたバナナ。
その両方を目の当たりにし、打ち立てる仮説。
・父は「みんなきっと食べるだろう」と父なりに他の人たちを喜ばせようと思いバナナを購入し、持っていく。
・しかし、そのバナナは特段相手に喜ばれるものではなかった(ように私には見えていた)。
・それからすぐに、まったく別の方から同様にバナナがやってきた。
…ということは。
【仮説】
喜ばせようという思いで行動したことは、たとえその相手にとって必ずしも喜ばしいことではなかったとしても、出した方にはまわりまわって同じように(喜び事として)返ってくる。
ということなのだろうか。
普段、戸別訪問して歩いていても、訪問された方が喜んだり、たすかったりというケースは圧倒的に少ない。全くと言っていい程ほとんど皆無に近い。大抵は迷惑そうに態度にあらわし、お断りされてしまう。「天理教が勧誘にきた」と、関わるだけ時間の無駄だって思われているのかも。そりゃそうだよね。
だけど、たとえ相手がたすかってもいなければ喜んでいなかったとしても、「たすける理がたすかる」
と教えられているように、にをいがけに歩き伝える努力をしているこちらには「たすかる理」がしっかり育まれているのだから、何も心配しなくてもいい、と、バナナの一件からそんな風にも思えている。
まあ、でもしかし、どうせなら相手に喜んでもらった上で喜びがめぐりまわって来る方が、お互い嬉しいんだから、そっちが断然いいですよね(^_-)!
【2011.11】
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