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11.“普遍的な境地”への憧憬

三浦綾子というキリスト教文学の作家に一時期ハマり、彼女の代表的な作品ならある程度は読んでいる。
デビュー作の「氷点」に出会った時は正直おおいに心が揺さぶられたし、「塩狩峠」なんかは本気で大粒の涙をこぼして読み進めていた。その他もけっこう手に取ったほうなんじゃないかと思う。

三浦は若い頃に脊椎カリエスや肺結核などの病を患い、病床で、とあるプロテスタントの伝道者に導かれ、信仰の門をくぐることとなる。(ちなみにこの頃、天理教の布教者からもにをいがけされていたのだが、心に響くものがなかったみたいで、生憎三浦の波長には合わなかったようだ)

三浦は文壇デビューを果たして後、晩年はパーキンソン病を患いながら七十七歳でその生涯を閉じている。難病と向き合いながら、その心は彼女が信じる(私達の天理教とは異なる)神の教えのもとで救われていたのだろうなと思うと、なんだかちょっと不思議な感覚にも包まれる。

人生の苦難苦境に直面した時、その人にとって救いをもたらすものは、必ずしも唯一、ひとつとは限らないからだ。三浦の場合、プロテスタントの信仰が彼女にとっての支えであり、平穏の糧だったのだろう。

こういうことは、私にとっても深い示唆を与えてくれる。

日々戸別訪問を繰り返す中で、あらゆる宗教の信者を名乗る方と話しをする機会に巡り合うけれど、

「我々が信じている神(仏)が説かれているものこそが本当の教えなのだ」

的な主張をされる方・宗教団体関係者とは、基本的に議論が平行線を辿る。
“自分達以外の他の教えは全て間違っている”“邪教だ”という先入観は、見える世界、聞こえてくる声の持つ意味を狭めてしまっている感が否めず、擦り合わせの糸口が見つからない。

人と人とがすれ違わないように、結びつこうとする上で大切なことって、先ずは相手の語りかけて来ることにじっと耳を傾け、それが仮に自分達が信じているものと一見相容れないものであったとしても、可能な限り対話することを諦めずどこまで歩み寄れるのか。そこなんじゃないだろうか。

ひとところにとどまらず、もっと、より普遍的な境地を見てみたいと感じ、そんな意識が、戸別訪問・布教という行為の中でより深く研ぎ澄まされていくわけだから、少々皮肉な変遷を私は辿っているのかもしれない。

白熱の布教者…ではないわなぁ、とてもじゃないけれど。

【2012.10】


布教の家に入寮していた二十代前半の頃、人生で最も布教に専念できるような環境下で私が頻繁にしていことは、図書館通いでした。

歩いて、訪問し、そこで出会う様々なそれまでの自分の価値観とは異なる人々に出会い、その度にどんどん問いが生じてきます。
また未知の世界の話に触れ、わからないことがあれば都度図書館に足を運び、それに沿った新しい知識に触れようと試みていました。

そういうタイプの人間が巷でよく聞く典型的な天理教布教師へと成長していくわけもなく、しかしながら現在の私自身の在り方を見つめる上で、
(この頃やっていたことがしっかり、後々の今の自分のスタンスに結実しているなぁ)と小さな再発見を味わっています。
なんだかんだで様々な紆余曲折の道程は、無関係な点の連続のようで、気づかないうちにいつしかそれが一本の線となり、連なった意味を為していくんでしょうね…(´ー`)感慨深し。

ここまで読んでいただきありがとうございました。
それではまた(^^)/

   

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