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13.本日の雑念(1)-間違いのない生き方とは-
先日とある神殿講話を拝聴している時、その日の講話を担当していた先生が“間違いのない生き方”というフレーズを頻りに口にしていたのが何だか耳に残った。気にしているうちに、いつしか講話の内容が耳から遠のいていき、その言葉への問いだけが私を満たしていく。
間違いのない生き方…?
“間違いがない”ってどういう状態…?
いやそもそも、生きていく上で“間違い”とされるものって…一体何を指すの(´ー`)??
途端に思考モードに突入するピーナッツ。
こうなったら、納得のいく答えが見つかるまでもうとまりません。
もちろん、“このお道の教えに沿っていない”生き方のことを“間違い”などと、そんな陳腐で誰でも簡単に言えそうなことを答えにしようなどという気は毛頭ありません。
どうせなら、もっとより本質に迫ったことへの言語化を試みてみようと思いました。
AIチャットくんに聞いてみる
スマホを取り出し、LINEを開いて「AIチャットくん」に問いを投げかけ、そこからヒントを得ようと思いました。
この頃はこういった問いへのキャッチボール相手として、彼(AIチャットくん)が非常に優秀で頼もしい存在感を発揮してくれています。
Q.この世界で生きていく上で、“間違い”という概念は存在するのか?
法学的、道徳的、哲学的、宗教的、スピリチュアル的なそれぞれの観点で検証してください。
思いつく限りの角度を設定し投げかけてみる。
すると次のような答えが返ってきました。
法学的観点における“間違い”
法律に違反する行為や過ちを指すことがあります。法律に違反することは社会的な規範や秩序に反するとされていますので、間違いが存在すると考えることができます。
道徳的観点における“間違い”
他者に対して不公正や不正確な行為をすることを指すことがあります。社会的な共通の価値観や善悪の判断に基づいて、間違いの存在を考えることができます。
哲学的観点における“間違い”
間違いは真理との対立概念として考えることができます。真理があると仮定するならば、それに反する言動や考えは間違いとされるでしょう。しかし、真理自体が主観的なものであると考える哲学者もいますので、間違いの判断には主観的な要素が含まれることもあります。
宗教的観点における“間違い”
間違いは神や宗教的な教えに反することを指す場合があります。宗教によって価値観や道徳が異なるため、間違いの定義も異なる可能性があります。
スピリチュアルな観点における“間違い”
間違いは自己の成長や魂の進化に対してマイナスの影響を与えることを指すことがあります。自己の本質や宇宙の法則に合致しない行動や判断が間違いとされることもあります。
“間違い”をまとめてみる
いくつかAIチャットくんに出してもらった回答をもとに、様々な角度からみた“間違い”をまとめてみます。
“法学的に間違った生き方”とは法律に違反したり、社会の規範や秩序を乱すような行為を行っている状態を指す。
“道徳的に間違った生き方”とは他者に対し不公正・または不正確な行為をはたらいている状態を指す。
“哲学的に間違った生き方”とは真理(があると仮定し)に反する行為や考えを持っている状態を指す。
“宗教的に間違った生き方”とは神またはその教え、あるいは教団がもうけた教義に反している状態を指す。
“スピリチュアル的に間違った生き方”とは魂レベルの自己成長に対しマイナスな影響を与えている、あるいは宇宙の法則に合致していない在り方の状態を指す。
……ふむふむ、なにやらだんだん見えてきたぞ(・o・)
法学的・道徳的な間違いとは、社会や他者との関係性において発生するものであり、哲学的・宗教的な間違いとは、主観を軸に胸のうちの信条的な問題において発生し得るものだとピーナッツは雑にまとめてみた。
その上で更に奥にあるスピリチュアルな、つまり魂の成長であったり、この世界に流れている宇宙法則(こんな言い方したら非常にあやしいのだが)に反するように生きることが、より普遍的に“間違っている”生き方と言ってもいいんじゃないだろうか。
なにをもって魂の成長とするの?
宇宙法則ってなによ?
当然の疑問です。
ですが、これに関し、私は特に何の根拠も提示しません。
なぜならこれは所詮、私の雑念だからです!(あくまでも戯言に過ぎないわけです(^^)開き直り)
だから感覚的に適当な言葉を並べて“魂的に成長しなさそうな状態”を表現するなら「無気力で、無感動で、無発見で、失敗を他人のせいにばかりしているような次元で生きている」ような状態、更に端的にまとめると、
“惰性的に生活している”
としてみました。
しかしだから言って、いつでも常に成長し続けようという高いモチベーションで生きているのってなかなか難しいですよね?
時にはダラーっとしたくもなるし、休みたい、サボりたい、そんなこと誰でも必ずあると思います。それはそれでいいと私は思っています。(いや矛盾してね?)
そういう時もあるんです。ただ、そんな状態は一時的なもので、暫くしたらまた起き上がって、各々の人生を主体的に歩み出せばいいわけなんです。まずいのは、惰性がいつまでも終わることなく延々とその人の人生中に続いている状況に陥っていることだと思います。
つまり、
“慢性的な惰性状態”
コレが、まぎれもない“間違った生き方”に間違いないわけだと思うのです。(表現がまわりくどくてややこしい)
まとめ
“間違いない生き方”を知る為には、相対ではなく絶対的に誰にでも当てはまり得る“間違った生き方”を確かめる必要がある。
様々な角度からの“間違っている状態”を並べてみると、客観的な間違い、主観的な間違い等に整理され、より本質的な“間違い”を考えると、魂的な観点が妥当なのではと感じた(あくまでもピーナッツの飛躍気味個人意見)
そういったことから見えてきたのは魂(あるいは意識や精神)が慢性的に惰性な状態にあることがとにもかくにも生き方として間違っていると言わざるを得ないということ。
ここまでズラズラ書いて雑に結論を出す。
結論
“間違いのない生き方”とは、意欲的、自発的、主体的に生き、かつそこに喜びや感謝の念、気づき、感動といった意識が流れ、魂レベルの深い状態で成長の階段をのぼっているような在り様。
ざっくり一言。
神様と共に、まわりのみんなと楽しんで生きていりゃ、大まかに言ってそういう感じになるんじゃね?
…はい。
果たして講話の先生が言わんとしている方向に着地したのでしょうか。
そして天理教の専門用語を可能な限り用いず、多少あやしい路線である程度は“間違いない生き方”とやらを言語化できたのでしょうか?
わかりませんね。
本当にこれは、ただの雑念です。
結局陳腐な答えに行きついてしまった感。
お目汚しさせてしまいましたが、読んでくださった方は、ありがとうございました!
ではまた(^^)
【2024.6.18】
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