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4.“わかりやすさ”って何なんでしょう?

先日、とある先生(教会長さん)に、私が編集に携わってるとある会報の内容に触れてこんなことを言われました。

「この頃ピーナッツくんが書いていることが段々難しくなってきたような気がするね。もっとわかりやすくて親しみやすい話を書いた方がみんなも手に取りやすくていいんじゃない?」

…と。

ヘイッ、承知しました('◇')ゞ‼

…とはならないのが、わたくしピーナッツ。癖強めです。

確かに、一般のようぼくさんや信者さんには難解な内容だったことは認めます。仮にそういった方から同様の感想をいただいた場合なら

あ、ハイ、もっと工夫します…(;^ω^) (読んで下さり、更に感想までいただきフィードバックありがとうございます‼)

…と、そんな態度で貴重なご意見を頂戴したでしょう、きっと(多分)。

しかしながらです。ご意見を下さったのは、教会長さん。それも、若い頃から布教やおたすけの経験も数多く積んでこられ(…多分)ている大ベテラン。
道の牽引者ですよ、つまり。現在は七十代半ばに差し掛かり、最前線の布教戦士とはいかないまでも。

そんな会長さんに「内容が難しい」と言われると、スッと受け止めるよりも、少し考えてしまうものです。

“難しい”と感じた理由

ではどうして、その先生が私のコラム(意見)に目を通して
「ムズッ。パッと見、意味わからん」となったのでしょうか。
私は、その原因は次のいずれかなんじゃないかなと想像していました。

1、単純な書き手の力量不足。伝えたいことの核心が文章にのっていない。

2、読み手の理解のキャパを超えたことに言及しているから。

3、その両方。

当然、私の力量不足であることは多分に認めます。文筆力の未熟さ故にお相手のお目を汚してしまったのだと。
でも、もしも2(もしくは3)だった場合ならどうでしょうか?
ここがちょっとした落とし穴なんじゃないかなと思うんです。

確かに説明であったり、内容であったりが“わかりやすい”方が、それに触れる対象者にとっては易しく、敷居や間口もきっと広いでしょう。
また、伝える側・提供する側も常にそういった部分に意識を向け、言葉や表現を絶えず磨き続けることは本当に大事だと思っています。

ただ、わかりやすさを良し悪しの基準にしたり、簡単に求めてしまうのって、それはそれでちょっとどうなのかなとも思うんです。

シンプルで短い言葉。
キャッチーなフレーズ。
耳障りの良い表現。

それ、人を騙したり、上手にコントロールしようとした時に巧みに利用されていません?

そんな悪意的で穿った見方は少し極端過ぎですが、それは置いといても、わかりやすさを安易に求めてもいい立場って、初心者だとか、その道のまだ浅い段階の方なんじゃないのかな?

少なくとも、お道にとって確実に核とも言える教会長という立場の方が「わかりやすさ」を希求するのは、さて、どうなんでしょう。
…目上の方に対し生意気言ってますね(^_^;)

“すぐわかる”んなら、そもそもソレ必要?

とある人がこんなことを言っていたのを思い出します。

「聞いた時に“あ~わかる”ってすぐに感じられるワケは、そもそもそれが既にもう自分の過去の経験や記憶の中にあることだから。本当にそれが未知の情報であったり、全く想像を超えたものだったら、簡単にピンと来たりせず“えー何それ⁉”という一種の拒絶反応みたいなものが出る。だから“わかりやすい”って感じられることって既にもう“知っている”ことをただなぞり直しているだけで、そこにあることって新しい学びではない」

とある雑談(引用とは言えない)

私はこの意見を聞いた時、目からうろこというか、(すごい視点だなあ)と感心していました。つまり“わかりやすい”って思うことって、もう知っていることなんですよ、その人にとって。そして“難しい”と感じる情報に触れた時、それはつまり、もうそれ自体が今まさに何かを学ぶ機会に接している、ということでもあるわけです。

では、初心者なんか当然例外とするにせよ、その分野に対しある程度経験を積んできた人間が尚更“わかりやすさ”を暗に求める営みって、無意識に成長や学びを回避している行為や態度とも取れるわけなんです。それ、知らず知らずにやっていたとしたらなかなか危険なことじゃないでしょうか?

人の心は複雑でわかりにくいのよ

飛躍したことに言及するかもしれません。
私はいつも色々な方と関わり、悩みや心情吐露を受け止めるようなことをチマチマやっている者なのですが、本当にいつも痛切に感じるのは、人の心って複雑怪奇で、まっことにわかりにくいし、その真意は得てして見つけにくいものなんですよ。

例えば、訪問する度にいつもご主人のひどい悪態をつくご婦人さんがいて、当人がそこでふんぞり返って聞き耳立てているのに、そんなことお構いなしで大声で旦那さんの悪口まくし立てて、

(待って待って…いますよご本人(;'∀')…)

と始終気まずい思いをしていたお宅がありました。

毎回そうだったので、よっぽど夫婦仲が悪かったのかなと感じていたのですが、そのご主人が身体を悪くし、介護施設に入居することになると、それ以降そのお宅に訪問するとご婦人さんが、「お父さん、ひとりで施設生活を続けていると思うと、かわいそうでかわいそうで…」と、180度真逆なことを言うように変わってしまいました。

ピーナッツは内心、
えー(;'∀')⁉
その話題のご主人って、いつものご主人と同一人物なんですか??
そう感じてしまうぐらいに。

これに限らず、人の声に、その言葉に、揺らぐ感情に、長く、機会を幾度も重ね耳を傾けていると、その心の向きが一貫性に欠き、時には怒り、時には慈しみ、時には憎しみ、時には哀れみ、そして死別後は苛まれる後悔…同じ人が同じ人に向ける感情の複雑さ、決めつけることの困難さに何度も何度も学ばせてもらってきた次第です。(目下学ばせていただいている途上です)

そう、人の心って本当に、わかりにくい、至極難しいもんなんです。

だからつくづく思うのですが、“わかりやすさ”ってことにフォーカスし続ける生き方に慣れてしまうと、何より一番難しい、人間の感情の揺らぎや心の奥の真意みたいなものへのアンテナがへなへなに感度を下げてしまいやしないかって。
そこは危惧しときたいですよね。

…とまあ、長々と脱線しまくって最初の「君の文章ってなに書いてんのかわかんないよね」から少々(かなり?)あさっての方向に突っ走ったような駄文になってしまいました。
あんまり天理教的でもなかったような(;'∀')

読んでくださりありがとうございます。
よろしかったらまたお付き合いください。
ではまた(^^)/

【2024.6.12】


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