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17.もしも神様の声がきこえたなら

本当の自分は元々悲観的な性分なもので、普段は布教して歩いてはいるけれど、実のところ、天理教の究極的な明るさというか、ポジティブに見えがちな風潮が、自身の根っこの部分では嚙み合っていないというジレンマを常に抱えながら今日まで生きて来た。

ほのぼの朗らかとしたぬくもりやあたたかみよりも、
“なぜ生きる?”
“どう生きる?”
…という悩みや問い、葛藤といった地底から汲み上げられてくるどこか重たい波動こそがむしろ重要な力の源泉でさえあった。

“陽気ぐらしの天理教”

それなのに自分は、本当はちっとも陽気なんかではない…。


そんな内に抱えた矛盾を克服するに至ったのは比較的ごく最近のことだった。とことん壁にぶち当たった末、

“こんなにも欠陥だらけな自分なのに、それでも神様は生きることを許し、今日を、命を私に与えてくださっているんだ”

という境地が突如、舞い降りて来る。
それはあたかも天啓であるかのように。
途端に視界を遮る霧が晴れ、冴えわたる景色が私の眼前いっぱいに広がっていった。
本当に、心底救われる思いだった。


お笑い芸人のピース・又吉が以前あるバラエティー番組に出演していた際、彼の口から

「人生で本当に大切なのは迷いであって、悟りではない」

そんな言葉が語られていた。
漠然とテレビ画面を観ながら、すっかり油断しきっていた私の胸に突き刺さる不意打ちの一言。

生半可に知ったつもりになって悟った気になっているよりも、見つからない答えを求めてどこまでも迷ってもがいている人間の方が、ずっとずっと美しい……又吉はそう言いたかったのかもしれない。

そうだ。
その“迷い”があるからこそ、人は真摯になって答えを求めようとする姿勢が培われていくのだ。
おそらく、きっと。


先輩布教者の死

教祖百三十年祭に向かう諭達が発布され、いよいよ年祭活動に向かう歩みが始まった。
秋季大祭を参拝し、青年会総会も終わり、私は地元に帰る荷支度をしていると、仲間の布教師から電話がかかってくる。

『おい、S先生のこと聞いたか?!』

いや、まったく。…なにかあった?

仲間からS先生の突然の訃報を知らされ我が耳を疑う。

俄かに信じ難いことだった。
私達にとってS先生は、先輩布教師であり、良き兄貴分たる存在だった。
年齢もまだ五十代に入ったばかり。まだまだこれから…むしろ、本当にこれから牽引者としてまわりをリードしていくべき立場のお人だった。

暫くの間、S先生の突然の死に対し混乱が続いた。
なぜ、どうして、よりにもよって今このタイミングなのか?
…いくらどう考えても納得のいく、明解な回答を導き出せずにいた。

布教やおたすけにやる気でみなぎっていて、みんなのムードメーカーたる存在を、どうして神は連れて行ってしまう?
まさにこれからだっていう、この時に。

地元に戻って彼の葬儀を終えて後も、いつまでも疑問は拭いされず、その心の重荷はどこまでも尾を引く。

神様、どうしてなんですか?

そう直接問いたかった。


もしもここで、投げかける問いに返答する神の声をきくことができたなら、どんなに楽だろうか。

【2012.11】

 
…それから約十二年という時間が経過した現在。
先日私は、S先生の長男・クルミ君に声をかけられ、ある方のアパート引き払いの家具撤去作業を手伝ってきました。


カーテンをはずすクルミ君。部屋のありさまが、元の家主の生活状況を容易に想像させる。

父親の急逝がもとで、本当は就職しようと思っていたクルミ君の運命は全く予想もしていなかった方向に急転します。
二十代前半で亡き父同様に布教専従の生き方を選ぶクルミ君。
ストイックな彼は、いつも隙あらば「〇〇日間断食」だとか特定の食べ物や自分の好きなことを「○○断ち」し、文字通り身を削っておたすけに明け暮れます。

今回の部屋に住んでいたある高齢者の身元を引き受け、彼の教会に連れていくことが決まったので、引っ越しの際の不要物を廃棄したり、部屋掃除を数名で手分けしてさせてもらいました。
これで、クルミ君の教会ではおたすけをキッカケに住み込みで面倒を見ることになる方は三人目となりました。いずれも元は生活困窮者ばかり。

いよいよガチ勢の階段をのぼり始めた青年布教師・クルミ君。
私ピーナッツなど、最早足元にも及びません。

かつてクルミ君達家族を襲ったあの大きな節から十年あまり…当時立ち塞がれるような心境を抱いた私としても、教友として今日の彼等の姿を見ていると、本当に感慨深い思いです。



S先生はいま、息子の姿を、教会のそんな様子をどうご覧になっておられるでしょうか。


ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた~(`・ω・´)


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