5.おぢばでの時間は理屈じゃない
※教祖百三十年祭の年祭活動当時の眠っていた過去の随想に息を吹き込んで書いています。季節錯誤なくだりには多少目をつぶってやってください(^_^;)
私の住む町は冬になると降る雪の量が比較的多い土地で、今年は特にも雪が多いような気がします。放置していると最終的に一階がスッポリ埋まるぐらい雪が降り積もるんです。
連日の除雪作業、それが終わるとご高齢の信者さん宅や、おたすけの通い先の雪片付け作業もお手伝いに行っています。
冬は本当にこの土地に住む者にとって修羅場なのです。
加えて、ここ最近私達夫婦の間に新たに娘が生まれたこともあって、お風呂にいれたり甲斐甲斐しく世話したりと、本当に忙しい毎日の連続です。
こんな多忙を極める時期に、青年会直属分会の本部のひのきしん隊入隊割り当て月も重なってきました。私も入隊を予定しています。
(こんな時にわざわざおぢばにひのきしん【それも倉庫整理みたいなとってつけたような作業云々】しに行かなくても、教会に残っていた方が嫁さんも信者さんもおたすけ先の人達にも、みんなにとって都合がいいんじゃない?)
心の中のもうひとりの私の声がそう語りかけてきます。
雪片付けや育児に明け暮れしている方が、確実に周囲にとっても楽な筈。
そんな私のボディを間髪入れずにえぐり、人間的思案をたしなめるかのように的確な先人教話に出会ってしまうわけだから、因果なものです。
おやしきの勤めは理屈ではない
……もう、孝四郎さんったら(;'∀')💦
時空を超えてやってきた先人先生によって論破し倒され、屈服するピーナッツ。
“おぢばに伏せ込む”ということは、人間の浅はかな勘定・計算や効率云々を超越した大きな財産をいただけるのだと聞かせてもらっています。
桝井孝四郎先生の教話を私なりに解釈しますと、おぢばに足を運ぶこと、身を置くことから“をやの理”をいただくことが始まり、加えて旅費が高ければ高いなりに、距離が遠ければ遠いなりに、時間がかかるならかかるなりに、そのいずれもの労力を裏切らないだけの、いただけるお徳は大きいものだと感じるわけです(おぢばから遠い土地の民人として身びいきな解釈も多少あるにはすれ)。
更に恐れずに拡大解釈を試みるなら、私がおぢばに帰らせてもらえる際、それを送り出す教会や、家族にもまた等しく徳が分配されるのではないかとも感じているのですが、そこまで考えても簡単に目にみえるわけでもないし、なかなか実感の難しい境地ですよね(^_^;)
【2012.2】
…まだピュアだった頃の残光がほの見える、過去の自らの紡いだ文章にちょっとむずむずする、だけどそんな風に素直に感じていた時もあったよなぁと自らの見つめ直しにもなる、そんな拙い駄文でした。
読んでくださってありがとうございました。
ではまた(^_-)-☆
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