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9.賞味期限ってものがあるんだよね

私は村上春樹という作家の作品が割と好きで、同じ小説でも二度、三度と何周も繰り返して読んでいた時期もありました。毎年ノーベル文学賞候補に挙げられながらも結局逃してしまい、そんな報道を観ていてその度にどこか肩透かしを食っているような気分にもなります。(個人的にはねじまき鳥クロニクルが好きです)

そんな春樹さんなのですが、小説執筆の傍ら、数々の海外文学の翻訳を自ら手がけては日本に送り出す、優れた翻訳家としても一面も持っています。一部からはむしろそっちの顔の方が評価が高いくらいなんです。中でも彼が作品邦訳の全てを請け負ったレイモンド・カーヴァーシリーズなんかは本当にすごいです。(余談ながら、『大聖堂』という短編が珠玉の名作です)

そんな彼がある翻訳作品のあとがきで、こんなことを書いていたのが印象的でした。

賞味期限のない文学作品は数多くあるが、賞味期限のない翻訳というのはまず存在しない。
(中略)
不朽の名作というものはあっても、不朽の名訳というものは原則的に存在しない。

『グレート・ギャツビー』「翻訳者として、小説家として」より

翻訳にあたってはその時代の空気感や用いられている言語のニュアンスにあてはまる日本語で営まれる。言葉は常にとどまることを知らず、遷り変わる時代の変化に伴って刻々とそれ自体が姿かたちを変えていく。
だからいかに物語自体が秀逸であろうと、古い時代に編まれた翻訳表現はおのずと現代感覚とのズレを生じさせてしまう。

故に村上は、誰かによって既に翻訳済みの海外文学(たとえそれがいかに名訳と評価されていようと)の更なる翻訳を試みようとするのだそうだ。(ていうか、単純にそれが彼の息抜きというか、趣味らしい)

そこでわたくしピーナッツは、その論法をそのままお道にも転用して考えをめぐらします。

おやさまによって伝えられた本教の中に込められたものは永遠不変であり、深奥極まりない。しかしながらそれは、一方で明治時代の、大和の一地方の方言仕様で表現されており、それから既に相当な時間が経過している。少なくとも、現代感覚でそのまま受け取ろうとすると、ものによっては解釈を誤るおそれは十分にある。

そしてまた、現代人が抱える悩みや苦しみは複雑多様の一途を辿り、たとえば“医者の手あまり”ひとつ取ってみても、明治と現在では全く異なった内情を抱えているであろうことは想像に難くない。

教えの本質は未来永劫不変。しかしその実践・解釈・表現の方法において、時の洗礼を受け、残念ながら賞味期限が迫っている(あるいはもう切れてしまっている)ものはないだろうか?

この道の信仰者は、すべからく未だ親の存在を知らぬ人々へその真実を伝える伝道者であり、理解に近づくように説き明かす翻訳者でもある。
より洗練された“教えの新訳”を日頃から心がけ、世の人が何を求めているのか、それらのニーズに応えていくようにお道をどう結びつけていくべきか、ひとりひとりが決して無関心ではいられないトピックだと私は感じている。

【2012.6】


…当時は少し断言的な語り口で言葉にしていますが、十数年経ち、現在はそこからやや意見は軟化しています。
賞味期限は確かにある。それ自体が発生当初に比べたら、旬の鮮度を保っていない表現や手法、実践手段はあるにはあるけれど、逆にそのほとんどは消費期限そのものは迎えていないという見方もできるのでは、とも考えるようになった。
たとえば“路傍講演”。教祖四十年祭前後に発生した信仰二代者等の当時の斬新手法だった布教形態は、百年経った現在も未だに各地、各人で局所的に精力実践されている。(ひとりひとりの個性を無視して全教一斉にとかでやるものではないわな。おっと)
その路傍講演は、真新しさが目につく大正期に比べ、味は確実に以前よりも落ちたかもしれないけれど、まだまだ本人次第で味わうことは可能だ、という風に私は解釈している。つまり、教会長から一般信者まで一緒くたに促されるべき手法とはとてもじゃないが言えない段階に来ているけれど、一方で「私はこれでやっていく」という明確な信念を持つ個々人にとっては十分意味のある手法であり、そこに神が後押しするだけのものとして存在価値はある、ということだ。(あくまでも、そうしたい、それが好き、それでいく、という主体的な決意がそこに込められているということが前提で)

ほかにも、現代人の感覚に敢えて寄せず、それそのもの・薄めない原液のままで価値が十分あるものもたくさんある。(厳かさ・神聖性の保持という観点で祝詞や儀式なんかは特に)

海外文学を邦訳せず、原文で読むという在り方もあるわけだから、翻訳を試み続ける姿勢が重要であると同時に、古きよきものを闇雲に略化・廃止せず、なおも保存し続けることもまた大切なのだと思えるようになってきた。

まあ結局のところ、ゼロか百かみたいな極端は必ずしも良くはないわな~となっているのが四十代のピーナッツの眼前に広がる景色なわけです。

というわけで、長文お付き合いくださりありがとうございました。
それではまた('ω')ノ 

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