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7.おぢばでみせていただいた身上の障り

先日、青年会のひのきしん隊入隊の為におぢばに帰った際、詰所に到着して程なく激しい悪寒に襲われました。あれよあれよという間に四十度超の高熱に。インフルエンザに罹患していました。

詰所の一室に隔離され、食事を運んでもらい孤独な隔離生活。せっかくのおぢばがえりなのに月次祭にも参拝叶わず、「畳一枚が己の住む世界」を体感する、ありがた~いひとときを過ごすこととなりました。

翌月はじめの百母屋入りも、分会の他のメンバーに数日遅れての入隊となりました。そうやって一か月間伏せ込ませていただいたのですが、隊期終了間際になって、今度は某持病がむくむくと症状をあらわし出します。代わる代わるたくさんの方におさづけを取り次いでいただきながら、布団に潜ってなるべく動かないように、ただ天井をばかり見つめる時間が続きました。

はたからは一見病人には見えないようですが、実際はちょっとした階段の昇り降りだけでもすぐに息が切れ、胸が苦しくなるような状態。だからひのきしん隊を終えた後の月次祭にも参拝できず、再びじっと横になって今回の貴重なおぢばでの期間が終わっていくのでした。

地元に帰ってからもなかなか本調子とはいえず、快晴の爽やかな一日であっても、自室内でできるだけ動かないようにデスクワークのみをこなすように、この春を費やしていきます。

本当なら、体力に任せ、戸別訪問に歩きたい。

長い冬は雪との果てしない闘いが続くため、雪解けの季節到来と共に心機一転、元気に布教に歩き出すのが毎年の恒例の流れとなっていました。
なもんで、今年は身体が思うように動かせず、出鼻を挫かれたような苦い気分を味わっています。そんな私を尻目に、元気に歩きまくっている年の近い布教仲間の友達等がいつにも増して眩しく見えるわけなのです。ちくしょう(T_T)

こんな時に改めて実感する、
“まま食うのも月日やで、ものいうのも月日。
これがわからん残念、残念”
という御言葉。

おぢばでいただいた身上の患いだからこそ、意味深いものとして現在おかれている不自由な状況を喜びたいわけなのですが。

病と向き合い、己の内側の静謐の中で信仰を見つめ続けた昭和の先人、岡島藤人先生の教話が、今は殊の外、胸の痛みに優しく、心地よく響いてきます。

『一名一人限り』

真の信仰をもち得るほど、人生に大きい力と、深い喜びを与えることはあるまい。それだけに真に信仰というものは、流行病にかかるように、そう簡単に誰もが容易につかみ得るものではない。
偏狭頑迷な信仰は、時に己を傷つけるばかりではなく、他を不幸に陥れることさえ少なくない。
信仰はその人の人生体験の深浅に裏づけされるもので、ただお説教を聞いたり、読んだ書物をどう消化されるかということは、その人の教養の程度によって決せられるのである。同じ話を聞いたから、同じ書物を読んだから、同じ程度の信仰をもち得るというものではない。
苦悩のどん底に落ち、絶望の深淵に身動きならぬ時、その底から目にふれた一筋の光明、その時心耳にひびいた優しくも温かい何ものかの声、これこそが神の福音であり、何ものにもうばわれざる歓喜であり、不動の信念であろう。
信念の人は常に謙虚である。そして明るく優しい。しかも犯し難い徳が備わる。
口先や手先では、真に求道も布教も伝道もできるものではない。人々よ苦しめ、悩め、そして人事の限りをつくせ。人事の限りをつくした時のみ道は開ける。陽気の世界が開ける。
信仰は一名一人限りのものである。自らを開拓すべきで、他から塗りつけられるものではない。もし塗りつけられたものであれば、それはやがてはげる日がくる。

岡島藤人随想集「悟りは一つ」より

【2012.4】


当時はなにかにつけ、身体が思うように動かない、そんな時間を度々味わっていました。今となってみれば、自分自身の内側に問いを投げかけ、深い何かを見つめていく上で、大切な、とってもいい時間だったと思っています。

うまくいかなかったことから受け取ることができた何かって、うまくいくことによって結果的に得られることはなかったものだと思えば、良いも悪いも、照る日も雨の日も、突き詰めればそのなにもかもが愛おしい財産になり得るのかもしれませんね。

ここまで読んで下さりありがとうございました。
それではまた(^_-)-☆

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