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海外から帰ってきたら「日本語を書かない方が幸せなのでは」と思い始めた

5月の下旬から3週間、スペイン旅行に行ってきた。旅行中はほとんどインターネットをせず、日本語も話さず、英語で外国人と話し続けていたが、その「日本語を話せない状況」「ネットが使えない状況」「渋澤怜じゃない状況」が、予想以上に「気楽」だった。帰国してから気付いた、自分を縛る「ネット」「日本」「渋澤怜」についての考察。

・・・・・・・

水曜日にスペイン旅行から帰って来た。

日本にいる時は日がな一日見ているTwitterを、スペインではほぼ全くと言っていいほど見なかった。
毎日数~10は投稿しているツイートも、滞在中は3週間でたった2ツイート。


ネットを一切見ずに、何をしていたかというと、一日中外国人たちと喋り倒していたのだ! 英語で。

この、会話大嫌いもはなはだしい私が。

そしてそれが、かなり楽しかったのだ。


もしかして私、条件が満ちれば、お喋りだけでも結構満たされる?

もしかして私、書かないで済むなら書かない方が/ネットやらない方が/日本語を使わないほうが、幸せなんだろうか???

という、超~~~~~ビッグな問いにぶちあたってしまって、そのことを日本語でネットに書くことも躊躇する事態。

私、日本語大好きマンなのに。
書かないと自我が崩壊すると思ってたのに。
インターネット大好き人間だったのに。

わああどうしよう。とりあえず旅行中に何があったかか書いていく。

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今回私が行ってきたのは「カミーノ」という旅。
キリスト教の聖地のひとつ、スペイン・サンティアゴ大聖堂へいたる巡礼路800kmのうち、おしりの300kmを二週間かけて歩くというもの。6kgのバックパックを背負い毎日20~25kmトレッキングし、巡礼宿(巡礼者が1000円くらいで泊まれる、2段ベッドの合宿所みたいな安宿)に泊り、世界各地からやって来た巡礼者と英語で喋りまくっていた。

母と行ったのだけど、母と別行動しはじめた後半1週間は、完全に日本語をしゃべらなかった。

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■1.英語で喋るのスゲー楽

私の英語力は、うーんTOEICで言うと800とかそこらだと思うんだけど所詮受験英語、実践経験はほぼ無しなので会話はかなりたどたどしい。
でも向こうも大体英語非ネイティブだし(カミーノはスペイン人、フランス人、韓国人が多いよ!)、我々以上に英語が出来ない人もいる。(スペイン人の店員さんは半分近く英語が話せなかった気がする)

そして、しょせん旅先の日常会話なので、
「下品でも、失礼でもいいから、最低限『伝わる』」
ことを目的に、すっごい簡単な言い回しと、派手なジェスチャーと抑揚や表情を使い倒した。

このコミュニケーションスタイルが、めっぽう楽だったのである。

たとえば

お酒を断る時も「すいませんけどお酒苦手なんで……飲むと寝ちゃうんです」なんて英語で言わずに
「クイ!(ジェスチャー)→バタンキュー!(ジェスチャー)」で乗り切っていた。その方がウケるし実は伝わるのも速い。

語彙が無い分センキューもベリーグッドも500%マシマシくらいで連呼してると親切なバーのおじさんが「もっと食うか」と言って追加のお菓子をくれたりする。

猫があまりにかわいいのでボニートボニート(スペイン語で可愛いの意)連呼してたら飼い主さんが私の手を引き家の奥に連れていき、猫の赤ちゃんも見せてくれた。

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「言葉が不自由な異邦人」モード、超・楽。

しかも「アジア人の若い女」って世界最小&最若に見えるし何かとめずらしがられるし、

(私は31だけど向こうの人には「21の間違いだろ?」ってよく言われた)

そして「不思議の国・ジャパン」には皆興味津々だから持ち物から住んでる所から食べ物から何もかも興味を持ってもらえる。

何より!!!! 敬語を、使わなくて、良い!!!!!

謙遜!!! しなくて!!!! いい!!!!!! 気楽!!!!!!

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「いかに難しい語彙を使わずに、ノリとテンションとジェスチャーでコミュニケーションするか」を極めていったのが私のカミーノ道中だったように思う。

(1年半前のカミーノ体験記でも書いたとおり)会話内容は世間話かギャグしかないので、後者の「ギャグ」を、いかにノンバーバルで伝えるか、に、注力してったフシがある。


私、日本ではバリバリの語彙大好きマンなのにね……。職業、(一応)ライターなのにね……バーバルにステータス全振りマンなのにね……。

だから旅の終盤で出会ったスペイン人に
「レイはジェスチャーも大げさだし表情も豊かだしテンションもすっごい高いよね!」
と言われた時、ほんとーーーーーにビックリした。

わたし、表情豊かでテンションが高くてジェスチャー大げさなんだ!

本場(?)のスペイン人に言われるとは!!!

「まるで日本人じゃないみたいだ」と言われたので、
「そうです私は日本人ではありません。カミーノ中は人格が変わって、スペイン人になるんだよ」「日本では別人格なんだよ」「普段はめっちゃムスッとしてるんだよ」と伝えておいた。

そうなんだよね。

■1.1 日本語はこんがらがりすぎる

私がこんなジェスチャー大げさマンになったのは、カミーノで会った韓国人・ジャンの影響を露骨に受けたためである。
彼は、イタリア人夫婦(奥さんは英語が分かり、旦那さんは分からない)と会話する際、英語で話つつもジェスチャーをふんだんに使い、奥さん→旦那さんへの通訳を最小限にとどめていた。

それを見てジャンの新説さに敬服するとともに「あ、難しい表現を使うのってエゴだな。簡単で伝わる表現が正義だな」と思った。

そう、難しい表現ってエゴなんだよ。

日本についたとたん、成田から東京駅へ向かうバスの車内ナレーションがあまりに冗長でうんざりしてしまった。お忘れ物が無いようにとか窓から手を出すなとか窓から手を出すわけないじゃん!! この世のナレーションの9割が不要。敬語のせいで文の長さも二倍になるし、挙句の果てには運転手の滑舌が悪過ぎて&早口すぎてネイティブ日本人の私すら何言ってるのか分からかった。

スペインの新幹線(レンフェ)にも乗ったけど、一切ナレーション無しだったなあ……。駅名も告げないし、謎の野原で20分停車した時もアナウンスなしだったからそれはそれで不安だったけど……。

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とかとか考えながらカミーノを思い出していると、ただひたすら「楽しかったなあ」と思う。楽しかったのは、「英語の不自由な異邦人」として振る舞うのが楽しかったのだ。

英語で外国人と話した楽しさをまとめると


・敬語使わなくていい。雑さ、下品さも許される
・ノリとテンションと表情が豊かになり、必然的に陽気になる
・「細かいことは通じなくても、ま、いっか! オッケー!」と、もとからコミュニケーションの期待値が低い(その分伝わると超嬉しい)

このあたりとなる。

もちろん景色の美しさ、動物の多さ、適度な運動、スペイン人のお気楽な気風、などなど、カミーノの良さはほかにもあげられるけど、今私が日本で惜しんでいるのはこれだ。会話の別モード発動。

カミーノでは、普段は絶対仲良くなれないタイプの人――ウェイ系の人やスピリチュアル系の人とか――とも難なく喋れた。

それを「所詮旅先だけの浅いコミュニケーションだから」とか「長くいれば齟齬も感じるよ」とか言って切り捨てるのは簡単だ。

じゃあなんで今こんなにさみしいんだろうか??

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次はネットについて。

■2 ネットを見なければ嫌な気分にならないし、嫌な気分にならなければネットに文章も書かないのでは?問題

日本に帰ってから、3週間分のネットをさかのぼるように読み漁っている。

カミーノ中は常に周りに人がいた。寝る時も上か下に人がいた。(宿舎が2段ベッドだからね)
一人になれずにもどかしさを感じる時もあったけど、全然さみしくなかったし、今に夢中なのでネットも見なかった。

カミーノから帰って来た今、ひとり暮らしのこの部屋が異様に孤独に感じる。

さみしさを埋めるようにネットを漁って、そしてさらにさみしくなってる。

(前回の旅行記でも全く同じことを書いている)


3週間にカミーノ中に一切感じなかった「嫌な感情の萌芽」を、たった1日ツイッターを見ただけで5個も6個も見つけてしまい、「ツイッターはなんて人を虚しくさせるツールなんだろう」と感じている。言葉の副作用、すなわちディスコミュニケーションの無間地獄ここにきわまれり、といった様相を呈してる。言葉を使いまくるあまり、言葉の微妙な差異にこだわり、言葉尻をとって喧嘩しまくってるのがツイッターだ。

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「女へんがつく感じは「嫉」「妬」「媚」とかマイナスのものばかり。女性差別だ!」とか、知り合いの女性芸術家がセクハラインタビューを受けた騒動とか、お決まりの電車内トラブルとかタバコマナーとか謝罪騒動とかそういう話だ。

様々な国の人が肯定しあうカミーノでそんなせせこましさは一切感じなかったのに、


ひとたび日本に戻り、ネットに接続した瞬間に押し寄せてきた、

あまりの、

日本の、

狭さよ!

……いや、厳密には一回だけ、カミーノ中にこの「嫌な感情の萌芽」の瞬間があった。
それは、「韓国人だけど日本に住んでたから日本語喋れるんです~」といって近づいてきた女の子で、「カミーノめっちゃ韓国人おるけど私韓国人マジ大嫌いなんで一緒にせんといてほしいですわ、あいつらなんなん?昨日3時間キッチン占領しよって。料理、長すぎ。マジないわー」みたいなことをペラペラ畳み掛けてきたとき。

いや、異国で久々に聞く日本語で「韓国人マジ大嫌い」なんて音列、マジで聞きたくなかった。
私は本当に他人の差別感情に敏感で、ちょっと触れただけでアテられるんだなと思った。(その子からは秒で離れた)

でも、本当に、嫌な思いをしたのは3週間でその一度きりだった。

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繰り返すようにカミーノが平和的で友好的なのは「旅」だからであり、あくまで一緒に歩いたり飯食う程度なら楽しく付き合えた彼らだって、一緒に働くとか長期的に付き合うとしたら齟齬は出まくると思う。私だって「不思議の国ジャパンから来たやたらテンションの高い少女」モードもいつまでもつかわからんし、3週間より長くいたら「本当の私を分かって」とか「母語での繊細な感情表現ができないのが苦しい」と言い出すかもしれない。


そしてスペインとて住んだら住んだなりの息苦しさはあるに違いない。海外のことを「夢の国」と思う気もない。

でも、わざわざ、息苦しい日本に住んで、ネットに接続して、わざわざ、息苦しい空気を吸って、イライラをためて、「自由に生きよう!」「ここはおかしい!」と叫ぶ文章を書くって、もしかして、ひどく、マッチポンプなのでは?

もしかしたら世界のどこかのある国では、「自由に生きよう」なんてあまりに自明でわざわざ言うほどのことでもないのでは?

狭い日本で狭いネットに接続して「自由に生きよう」的なメッセージを発信することを主なミッションにしていた渋澤怜は、割と無価値な活動をしてたのでは?

そしてそうやって私がネットに転がしてきた文章だって、言葉のディスコミュニケーション無間地獄の中で消費されるにすぎないんじゃ?(もちろん誰かの息苦しさに対する酸素ボンベになる期待も込めてるのだが)


広大な自然の中でのびのびと空気を吸っていたカミーノ道中は、なんにも書きたくならなかった。

「書かないとおかしくなるかな」と思ったけど、3週間書かなくても平気だった、というか、書くことが思い浮かばなかった。(メモは沢山した)


わたしが普段書いてることって、狭い日本の狭いネットの空気からイライラの萌芽を摂取して、それを吐き出してるだけなのでは???


■3.1 渋澤怜じゃなくても幸せ?

今まで「私が生き辛いのは渋澤怜としての生き方が確立してないからだ」と思った。
フォロワーが増えたり、エッセイの仕事をもらったりして「『渋澤怜を好きになる人』『渋澤怜にお金を払ってくれる人』が増えればどんどん生きやすくなるのでは」と思ってた。
「自分は渋澤怜としか生きてけない」と思っていて、だから「普通の会社員になる(例です)=渋澤怜として稼げてない=ほぼ死」と思っていた。
だから「渋澤怜は、こんな人です!!」「好きになってくれ!」「雇ってくれ!!」とばかりに、ネットなり紙なりライヴなりで情報を出し続けていた。

しかし、カミーノでは私はもちろん「渋澤怜」ではなかった(日本語が使えないからである)。

にもかかわらず、めっちゃ楽しかった。

「不思議の国ジャパンから来たやたらテンションの高い少女・レイ」として振る舞うことで、スペイン人のナイスガイには面白がられ、韓国人のおじちゃんおばちゃんに大変優しくしてもらえた。

単純に言うと、素直ないい子だった。お菓子と動物が大好きなバカッ子だった。

↑これは、「渋澤怜」とは真逆だ。
渋澤怜は、ひねくれててこまっしゃくれた存在だったはず……。

日本語を捨てた私は、日本語の呪縛から離れ、いつでもニコニコしてた。

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(いつもなら拒否るこの手の撮影もノリノリで応じる)

「え?? わたし、渋澤怜じゃなくても幸せなの?」という大胆な仮説、爆誕。

そんな仮説が爆誕してから、一切ネットを更新する気が起きなくなってしまった。だって私にとって「ネット=渋澤怜として活動する場=日本語を使い倒す場」だからね。


■3.2 どこで何を書くのが本当に幸せ?

帰国してから、ネットの作法である「分かりやすいタイトルを~」とか「URLを貼って親切に誘導~」とか「毎日決まった時間に更新~」とか、そういうのが全部めんどくさくなっちゃった。

「あれ、ネットって、私を自由にする場のはずだったのにいつのまに不自由にさせられてた?」「もしかして渋澤怜としてネットに住まうことって案外不幸せだったのか?」という疑惑が芽生えてる。

もしかして、渋澤怜としてライターなりエッセイストなり物書きとして生きるより、ただの陽気なおばちゃんとして田舎で野菜でも作って暮らした方が、私、幸せ?!(野菜作りをなめてるわけではないのですが、すみません)

それでたま~に「実は渋澤怜ってペンネームで物書きもしてるのよ~」って話せる程度でも、私幸せ??(野菜作りを片手間で出来るとも思ってないのですが、すみません)

そしてその時に書くものは「日頃都市とネットで受けるストレスから出力されるもの」からは異なる、本当の、日本語を使ったものになると思う。つまりおそらく私が本当に書きたい意味での「小説」「純文学」になると思う。

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(いきなり都市都市言いましたが、カミーノが基本スペインのド田舎を歩くため、「自然の中で歩く」というシンプルな行為がいかに人間を健康にするかを思い知ったんですね、単純に東京は人が多すぎる、パソコンとスマホと人の顔を見過ぎだ、くらいの意味です)

都市に住まい、ネットに住まい、息苦しい空気を吸い、都市に住みネットに住み息苦しさを感じる人間のための虚構的な文章を書いて頑張って月収20万稼いで虚構の家賃6万を払うことに、今全然必然性を感じない

わたし、東京じゃなくても、日本じゃなくても、生きてけるはずなのに。

帰国直後にミスiDの選考を受けても思ったけど(書類で落ちたので、敗者復活的面接を受けてきた)、オーディションっていうのは針の穴より狭い選考をくぐり抜けることであり、それができたならそれはもちろん価値だけど、できなくても「私はほかに活路がある」と思えることだって全く等しく価値だ。(このオーディションが、狭い日本やネットの苦しさから活路を見出す方面の象徴のように思え、この選考がこのタイミングにあることは私にとって本当に象徴的なことだった。)

東京で/ネットで生きてもいいし、逃げてもいい。

まあなんにせよ、今すぐ田舎なり外国なりに飛べるわけでもないし、東京で一人暮らす私には早急に今現在さしせまった孤独があるので、ついついネットを見てしまう。ネットを見ては「あー! ここには『イライラの萌芽』しかなああああい!」とわめいている。ドン詰まっている。

こんなところでドン詰まっている場合じゃないので、早急に以下の仮説を検証せねばと思っている。

1 日本語を使わなければ幸せ? →外国に行く あるいは日本の中の外国的な場所で働く
2 ネットを使わなければ幸せ? →「ネットを見てしまうのは孤独だから」。→孤独をなんとかする→……?(少なくとももう少し人と会った方が良い)
3 渋澤怜じゃなくても幸せ? → あえて渋澤怜とは関係ない「自然」「健康」などをキーワードにした行動をしてみる


「ネットを見てしまうのは孤独だから」ということに関しては、先日、大発見をしましたので、稿をあらためますね。



ま、全部わかってるんだ、本当は。

日本語だと「通じない」ことに絶望しすぎちゃうんだ。母語だろうが、英語だろうが、「所詮通じない」「通じたらラッキー」と思える諦念と寛容を備えれば、誰とだって仲良くできるんだ。ウェイやスピとも仲良くできるんだ。

私が本当に欲しいのはそれだ。諦念と寛容。



渋澤怜(@RayShibusawa

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