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#48 集団競争不適合者
学校という場所が大嫌いだった
小学校から高校までの12年間。
全ての時間ではないけど、大半は苦痛だった。
特に中学・高校は、僕にとっては暗黒時代であり、過去125キロまで肥えた理由は成長期だけではなく、ストレスもあったのだと思う。
一方で、大学は大好きだった。
大学に上がってからは成績も伸び、体重も減っていった。
勉強意欲も体重も、ストレスに左右されるのだということが証明された瞬間でもあった。
しかし、高校までと大学以降でいったい何が違うのだろう。
小・中・高でのストレスっていったいなんだったのだろうかと、大人になってからよく考えるようになった。
一つの結論としては、
僕は、集団と競争に全く合わない人間なのだというものだった。
「皆で」とか「力を合わせて」が苦手
10代が終わるまでの間は、どうしても集団行動を強いられる。
運動会にしたって、「皆で応援しよう」と言うし、
音楽会にしたって、「皆で一緒に歌おう」と言う。
そして、一人やる気のない態度を取ると、なぜか怒られる。
僕は周りと同じ行動を強いられるのが大の苦手なのだ。
一定のルールさえ守っていれば何をしてもいい、くらいが僕にとってはちょうどいい。
それから集団で授業を受けるという、学校で当たり前に行われていることすらも僕は苦手だった。
勉強というのはそれぞれペースがある。
周りにペースを合わせるのもとても辛かった。
そして何より、周りの目がたくさんある中で勉強をするのも苦痛だった。
逆にその苦痛によって、図書館というオアシスを見つけられたので、一概に悪いとは言えないけれど。
おそらく大学で成績が上がった理由は、個人で勉強するようになったからだと思う。
大学の授業も集団ではあるけれど、中学や高校よりも学生間の繋がりは薄くなる。なので、集団の質が違うような気がする。
大学の集団は個人個人が集まってできたもの。
中学・高校の集団は大人たちの手によって固められてできたもの。
その違いなのではないかと思う。
他人と比べたって辛いだけなのに
他人と比較する癖を持つ人は一定数いると思う。
僕はその理由として、学生時代に競争を強いられたからなのではないかと思っている。
少なくとも僕はそうだ。
中学受験と大学受験を経験し、中学・高校では定期試験で順位が貼りだされる環境だった。
やりたくもない勉強で、なぜか競争を強いられる羽目になったのだ。
競争というのは、比較と直結する。
彼より自分は成績が上。
彼女より自分は成績が下。
わかりやすいくらいに比較する種が蒔かれてしまう。
僕は、他人と比較することが大の苦手だ。
上と比べても、下と比べても、自己否定する未来しかないから。
ゆえに、比較することが苦手な僕は、自然と競争も苦手なのだと思う。
全ての競争が苦手というわけではない。
例えばポケモンバトルとかマリオカートのような競争は、全力で前向きな姿勢だった。
結局、競争する事柄に対し、前向きに取り組めているかどうかなのだ。
学校や会社が苦手=自分を持っている
2回の適応障害を経て、僕は自分のことを社会不適合者だと自覚した。
だけど、図書館司書はもう7年も続けられている。
社会でちゃんと生きられている。
それならば、社会不適合者ではないのだろうか。
自分はいったい何者なんだろうか……。
それを考えたときに出てきた言葉がこれだった。
「集団競争不適合者」
過去を振り返っても、集団行動や競争を強いられる場所にいるときはとてつもなく具合が悪くなっていた。
学校もそう、適応障害を患ってしまった会社もそうだ。
図書館にはそれがない。
スタッフ一人ひとりが自分の仕事を持っているし、そこに競争もない。
ほどよい距離感で仕事ができているから、僕は合っているのだと思う。
ただ、逆に考えれば、集団や競争が苦手であるというのは、個々で動ける力があるということに換言ができるのではないかと思う。
他人に頼らずとも、自分の力で生きられる力が人一倍あるのではないかと。
なので、もし学校に行きたくなかったり、会社をやめたいと思っていたりする人がいるのであれば、おそらくその場所が合わないのだと思う。
その理由は、学校や会社にいる人達よりも、「自分」というものを持っているからなのだと思う。
自分の持っているものってなんだろう。
それを見つけるのは難しいことかもしれないけれど、こうして文章を書いていればいつか見つかるのではないかと、今の僕は希望を持っている。
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