記事一覧
人の文見てわが文直せ
人の書いたものももちろん読んでるのですが、いいことを書いてると思うのにどうしても好きになれない人、というか文章があってずっとなんでだろうと思ってた。今日は別の人の別の記事の文章読んでてふと気づいた。ああ、あの嫌になる文章は人の否定ばかりなんだと。今日読んだ別の人の別の文章は、書き方としてこことここは確かにダメだけど頑張ったんだよと肯定なんですよ。あれはダメこれはダメと人のやることなすこと否定ばか
もっとみる12月25日(月)冬戦争26日目
潜水艦ヴェシヒーシとイク=トゥルソがバルト海に派遣された。彼女らは以前はパルディスキ前面への機雷敷設を行い、その後はリエパヤ周辺水域の偵察にあたっていた。
フランスのリールの市議会はフィンランドとポーランドの戦いに敬意を表して、町の2つの通りの名前を変更した。ルエ・デ・モロウはルエ・デ・フィンランドに変更され、ルエ・デ・ルシーはルエ・デ・ポローニャに変更された。
小説家のヴェッラ・ヴォリ
12月24日(日)冬戦争25日目
外務省と海軍は、バルト諸国海軍基地前面への機雷敷設について話し合った。両者は、バルト諸国の水域に、潜水艦で機雷を敷設することを決定した。敷設はとくにバルティスキとリエパヤ、要すればタリンに行われる。エストニアはフィン・ソの戦争に中立を宣言しているが、ソ連軍が進駐しそしてその基地を使用している。外務省とエストニア政府に、これに関連する覚書を送った。
もっとみる12月23日(土)冬戦争24日目
スターリンの誕生日への祝電が、モスクワ放送で披露された。祝電はこの手の出来事としては少なかったという。最初に読まれたのは、ドイツの相当アドルフ・ヒトラーと外相リッベントロップカラノ、温かい祝福の言葉であった。その他の祝電は、トルコ外相、エストニア大統領と外相、およびリトアニア、ラドビア、そしてスロバキアの首相と外相であった。まィンランド人民政府首相のO.W.クーシネンも祝電を送ったが、とくにそこ
もっとみる12月22日(金)冬戦争23日目
共和国保護法に基づき、個人の自由が制限されることが議会で審議された。多くの議員は賛成したが、ヴィーク、アンプヤ、スンドストリョームの3名の社会民主党議員だけは反対した。戦時下でのこうした制限はやむを得ないことと考えうるが、これに反対者がいたことも、フィンランドの議会政治が健全であることを物語るものだろう。
もっとみる12月21日(木)冬戦争22日目
この日はスターリンの60歳の誕生日であった(当時ソ連共産党が公にしてきたスターリンの生年月日は1879年12月21日)。テリヨキにあったクーシネンによるフィンランド人民共和国政府は、同所で彼らの部隊、フィンランド人民共和国軍による、スターリンの60歳の誕生日を祝う集会とパレードを行った。スターリンに対する祝意のテレグラムが送られたが、そこにはフィンランド人民の大なる友好と書かれていた。
もっとみる12月20日(水)冬戦争21日目
アメリカ、ニューヨークのマジソン・スクエアー・ガーデンで、フィンランドを応援する大規模な集会が開催された。これはアメリカで設立された、フィンランド委員会が主催したもので、同委員会の委員長はハーバート・フーバー前大統領が務めている。以前書いたように、同委員会はすでにフィンランドに10000ドルを送金している。この日マジソン・スクエアー・ガーデンには10000名のアメリカ人が集まり、この時だけで25
もっとみる12月19日(火)冬戦争20日目
スウェーデンのフィンランド支援センターは、フィンランドの子供のスウェーデンの里親の下への疎開を進めていたが、当初フィンランド側はこれに否定的だった。議長のスウェーデン外相(元になってしまったが)の妻のマヤ・サンドラは、この日ミッケリのマンネルヘイムの下を訪れた。これによって、最終的に反対論は一蹴された。彼女らの活動はマンネルヘイム元帥とマンネルヘイム子供保護協会の支援を受けられることになったので
もっとみる12月18日(月)冬戦争19日目
カッリオ大統領は、働き手が無くなったことで生活手段を失った家族のため、100000マルッカの基金を代表して引き渡した。この資金は国内留守部隊の管理部によって使用される。
総司令部は訓練センターを創設する命令を発した。
農林省は南東部で疎開牛と一緒にいる牛所有者に、口蹄疫の危険があることを警告した。
食糧供給省は、軍、民衛団およびロッタ・スヴォルドで勤務していない、自動車免許保持者に、
12月17日(日)冬戦争18日目
キュヨスティ・カッリオフィンランド共和国大統領は、ラジオで演説を行った。カイサ・カッリオ夫人もクリスマスのお祝いを述べた。カッリオはフィンランド独立当時からの有力政治家で、農民党所属、3回の首相経験を持ちフィンランドの危機と言える3年の間大統領を勤めた。カッリオは国内および外国に対して、マスコミそして一般に指導者のあるべき姿を示した。彼のパフォーマンス、とくにラジオ演説は戦時にあって、前線および
もっとみる12月16日(土)冬戦争17日目
12月8日の従軍牧師による戦死者を前線で埋葬する指令に対して大きな反発が起こったことで、総司令部は戦死者を故郷への輸送努力を強化するよう新たな命令を発した。従軍爆死は、軍団ならびに師団に従属する、新たな戦死者役務組織を編成した。そうしたセンターでは、戦死者の識別を行い総司令官のお悔やみを添えて故郷に戦死者の遺体を送付する。
もっとみる12月15日(金)冬戦争16日目
ヴァイノョ・タンネル外相は、夜半午後10時30分ラジオで演説を行った。演説はスウェーデン語とロシア語で行われ、率直にソ連のモロトフ外相に向けられたものだった。最初にタンネルは、彼やパーシキヴィがモスクワ交渉を行ったこと。タンネルとしては、ソ連の領土的要求には合法な権利とは認められないが、フィンランドとしては同意する準備があること。交渉は決裂し戦争勃発後、全ての連絡、そして伝達の試みは失敗に終わっ
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