これは11月30日の冬戦争勃発を機に、講和までの毎日を綴るつもりで書こうかと思っていたものです。実はイカロス出版で「冬戦争」を書いたときに読んだフィンランド語の資料で、同書には使わなかったものが多数あるのです。ただし軍事面はもう書いたので、冬戦争にこぼれた軍事以外の話を書いていくつもりです。毎日書けるといいけど...。資料読む苦労を加味して有料記事にしようと思ったのですが、すみません、10円にしようと思ったのですが最低100円にしか設定できないそうで。だから読まないでいいで
◆「コムソモーレツ」の派生型および発展型 「コムソモーレツ」をベースにした派生型はそれほど多くはないが、いくつか作られている。その最大の物はなんといっても有名なのは、1941年7月I製作されたSAU ZIS-30 57mm対戦車自走砲であろう。それ以外に「コムソモーレツ」をベースにした車体として、大戦前に遠隔操縦牽引車、音響欺瞞ポストが製作されたことが知られる。これらについては、稿を改めて後述する。 「コムソモーレツ」は牽引車であり、牽引車としての発展型についてまず触れる
◆「コムソモーレツ」の構造 「ピオネール」「ピオネールB2」の開発を受けて開発された「コムソモーレツ」は(シュティコフ車はなかったものとして)、「ピオネールB2」に準じる構成となっていた。車体は前方から変速機区画、操縦区画、エンジン区画が前後に並び、エンジン区画上が兵員室となっていた。「コムソモーレツ」を半装甲牽引車というのは、変速機区画、操縦区画、エンジン区画が装甲板で覆われているからである。ただし、兵員室が無装甲だから「半」なのだ。 装甲防御力は、対機関銃防護である。
◆砲兵牽引車開発の必要 第二次世界大戦前、ロシア軍(ここからはソ連軍と書くべきところだが、繁雑さを避けるためロシア軍で統一する)は、野戦軍の機械化を進めた。このための各種戦車装備の開発については、筆者もこれまで何度も書いて来たところである。しかし、軍部隊の機械化は戦車を製作することだけでは達成されない。それに協同する兵科である歩兵その他、この場合は砲兵の機械化も不可欠なのである。 ここでいう第二次世界大戦前における砲兵の機械化とは、馬曳きに代わる機械化牽引のことであった。
人の書いたものももちろん読んでるのですが、いいことを書いてると思うのにどうしても好きになれない人、というか文章があってずっとなんでだろうと思ってた。今日は別の人の別の記事の文章読んでてふと気づいた。ああ、あの嫌になる文章は人の否定ばかりなんだと。今日読んだ別の人の別の文章は、書き方としてこことここは確かにダメだけど頑張ったんだよと肯定なんですよ。あれはダメこれはダメと人のやることなすこと否定ばかりしてる文章読まされると、うーん、確かにそうかもしれないけど、それ言い過ぎじゃな
潜水艦ヴェシヒーシとイク=トゥルソがバルト海に派遣された。彼女らは以前はパルディスキ前面への機雷敷設を行い、その後はリエパヤ周辺水域の偵察にあたっていた。 フランスのリールの市議会はフィンランドとポーランドの戦いに敬意を表して、町の2つの通りの名前を変更した。ルエ・デ・モロウはルエ・デ・フィンランドに変更され、ルエ・デ・ルシーはルエ・デ・ポローニャに変更された。 小説家のヴェッラ・ヴォリヨキは、タンネルへの手紙でソ連政府とのつなぎをとることを提案した。その中でコロン
外務省と海軍は、バルト諸国海軍基地前面への機雷敷設について話し合った。両者は、バルト諸国の水域に、潜水艦で機雷を敷設することを決定した。敷設はとくにバルティスキとリエパヤ、要すればタリンに行われる。エストニアはフィン・ソの戦争に中立を宣言しているが、ソ連軍が進駐しそしてその基地を使用している。外務省とエストニア政府に、これに関連する覚書を送った。
スターリンの誕生日への祝電が、モスクワ放送で披露された。祝電はこの手の出来事としては少なかったという。最初に読まれたのは、ドイツの相当アドルフ・ヒトラーと外相リッベントロップカラノ、温かい祝福の言葉であった。その他の祝電は、トルコ外相、エストニア大統領と外相、およびリトアニア、ラドビア、そしてスロバキアの首相と外相であった。まィンランド人民政府首相のO.W.クーシネンも祝電を送ったが、とくにそこでは同志スターリンの言葉が使われていた。他の指導者は、通常の敬称を使用していた。
共和国保護法に基づき、個人の自由が制限されることが議会で審議された。多くの議員は賛成したが、ヴィーク、アンプヤ、スンドストリョームの3名の社会民主党議員だけは反対した。戦時下でのこうした制限はやむを得ないことと考えうるが、これに反対者がいたことも、フィンランドの議会政治が健全であることを物語るものだろう。
この日はスターリンの60歳の誕生日であった(当時ソ連共産党が公にしてきたスターリンの生年月日は1879年12月21日)。テリヨキにあったクーシネンによるフィンランド人民共和国政府は、同所で彼らの部隊、フィンランド人民共和国軍による、スターリンの60歳の誕生日を祝う集会とパレードを行った。スターリンに対する祝意のテレグラムが送られたが、そこにはフィンランド人民の大なる友好と書かれていた。
アメリカ、ニューヨークのマジソン・スクエアー・ガーデンで、フィンランドを応援する大規模な集会が開催された。これはアメリカで設立された、フィンランド委員会が主催したもので、同委員会の委員長はハーバート・フーバー前大統領が務めている。以前書いたように、同委員会はすでにフィンランドに10000ドルを送金している。この日マジソン・スクエアー・ガーデンには10000名のアメリカ人が集まり、この時だけで2500ドルが集まった。
スウェーデンのフィンランド支援センターは、フィンランドの子供のスウェーデンの里親の下への疎開を進めていたが、当初フィンランド側はこれに否定的だった。議長のスウェーデン外相(元になってしまったが)の妻のマヤ・サンドラは、この日ミッケリのマンネルヘイムの下を訪れた。これによって、最終的に反対論は一蹴された。彼女らの活動はマンネルヘイム元帥とマンネルヘイム子供保護協会の支援を受けられることになったのである。
カッリオ大統領は、働き手が無くなったことで生活手段を失った家族のため、100000マルッカの基金を代表して引き渡した。この資金は国内留守部隊の管理部によって使用される。 総司令部は訓練センターを創設する命令を発した。 農林省は南東部で疎開牛と一緒にいる牛所有者に、口蹄疫の危険があることを警告した。 食糧供給省は、軍、民衛団およびロッタ・スヴォルドで勤務していない、自動車免許保持者に、民間の仕事をカバーするため労働役務事務所に届け出ることを促した。 スウェーデ
キュヨスティ・カッリオフィンランド共和国大統領は、ラジオで演説を行った。カイサ・カッリオ夫人もクリスマスのお祝いを述べた。カッリオはフィンランド独立当時からの有力政治家で、農民党所属、3回の首相経験を持ちフィンランドの危機と言える3年の間大統領を勤めた。カッリオは国内および外国に対して、マスコミそして一般に指導者のあるべき姿を示した。彼のパフォーマンス、とくにラジオ演説は戦時にあって、前線および銃後の人々を勇気づけた。カッリオは戦争中から病気に悩まされていたが、戦後はカレリ
12月8日の従軍牧師による戦死者を前線で埋葬する指令に対して大きな反発が起こったことで、総司令部は戦死者を故郷への輸送努力を強化するよう新たな命令を発した。従軍爆死は、軍団ならびに師団に従属する、新たな戦死者役務組織を編成した。そうしたセンターでは、戦死者の識別を行い総司令官のお悔やみを添えて故郷に戦死者の遺体を送付する。
ヴァイノョ・タンネル外相は、夜半午後10時30分ラジオで演説を行った。演説はスウェーデン語とロシア語で行われ、率直にソ連のモロトフ外相に向けられたものだった。最初にタンネルは、彼やパーシキヴィがモスクワ交渉を行ったこと。タンネルとしては、ソ連の領土的要求には合法な権利とは認められないが、フィンランドとしては同意する準備があること。交渉は決裂し戦争勃発後、全ての連絡、そして伝達の試みは失敗に終わったことを述べた。