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アラサー女が石原慎太郎のお別れ会に行ってみて考えた話。

職場の代表が昼に呼ばれて、急遽代理で行ってきました。

会場言わないで来てくれって…。

石原慎太郎辞世の句。

灯台よ

汝が告げる言葉は何ぞ

我が情熱は誤りていしや

死の8年も前に書いた書籍の一句が、まさか時世の句になるとは思わなかった。

もらったパンフ。スタッフに掲載許可を頂きました。

この書籍の一句を時世の句としたということは、彼の最後に一番残したかったことはこの本に集約されていたのかもしれない。

この句には政治家としての強い石原慎太郎と、文学者としての繊細な石原慎太郎という2つの心がぶつかり合うまさに彼だから残せる句に思えた。

私が中学から高校の時、キング・オブ・東京都知事である石原慎太郎の本を読み漁った私にとって、ああ、もうあの東京の帝王はもういないのだとこの会が密やかに行われたことで、彼がこの世にいない寂しさを私は受け入れることがやっとできた。

春樹帰す

暗夜行路に

喜雨あれ

角川書店の2代目社長だった角川春樹は、コカインを輸入しようとして逮捕された。
弟の角川歴彦に、騒動が収まったら社長の座を返す約束で社長の座を譲った。
この約束は反故にされる。
角川春樹は懲役を済ませ出所することになる。

これはその時に作った歌。

まさに暗夜行路から出発でだったが、男たちの大和などヒット作を出す。喜雨とは喜びの涙かもしれない。

他方で政界では、リクルート事件で時の総理である竹下登、副総理の宮沢喜一、中曽根康弘元総理らの未公開株を巡る汚職事件により、竹下登内閣は退陣。

続く宇野宗佑内閣は、愛人にしようとしたした芸者スキャンダルで退陣。

完全に国民の信頼が無くなった自民党が20世紀末にあった。

1989年8月自由民主党総裁選挙で国会議員だった若き日の石原慎太郎は、自民党をなんとかしようと総理大臣を目指して自民党総裁選に立候補した。

しかし圧倒的大差で石原慎太郎は敗れた。

海部俊樹総理大臣の誕生だ。

この後、宮澤喜一内閣となり、自民党は保守政党なのか、リベラル政党なのか、目指す方向がよくわからない時代に入る。

自民党の議員たちは、続々と離党。

細川護熙、羽田孜、小沢一郎、岡田克也、鳩山由紀夫、鳩山邦夫、武村正義、二階俊博、そして石原慎太郎と戦った総理だった海部俊樹までもが自民党をこの後裏切ることになる。

そして自民党は結党以来、初めて政権を取られて下野する。

揺れる政界を石原慎太郎は自民党員として生きることになる。
これは石原慎太郎にとって国会議員として耐えられないものだったと思う。

この時代に彼が本を出していた出版社でも激震が走る。

1993年角川出版の神と言われた角川春樹は、弟の歴彦を社長から追い出して社長に君臨していが、コカイン事件により逮捕。

取締役会では、角川春樹社長を追放し、角川歴彦を再び社長にする決議に入る。

のちのニコニコ動画を買収した天才経営者、角川歴彦の帰還である。

この時に役員会で唯一決議で席を起立しなかったのが見城徹だった。

彼は犯罪者となった角川春樹の懐刀であり、石原慎太郎の仕事を他の出版社から引っ張ってきた天才編集者だった。

彼は石原慎太郎の前で、太陽の季節を暗唱して見せたほどの石原文学信者だったのだ。

1994年、春樹に忠誠を誓う見城は角川書店を去り、自分が社長となり、幻冬舎を作ることになる。

彼は自分が担当編集だった五木寛之、村上龍、山田詠美、吉本ばなな、篠山紀信、北方健三、坂本龍一を角川から電撃的に引き抜いて、作品を掲げて、イチカバチかで朝日新聞に公告を出し、出版業界に殴り込みをかける。

10代の時の私はこの時代の作品の中で、日本が第二次世界大戦で降伏しなかったパラレルワールドで、日本人がベトナム戦争のように日本国内で地下でゲリラ戦をしかけ、サイヤ人のように訓練された戦闘民族となった日本人が、敵対する国に攻撃されている国に傭兵として戦いまくる村上龍の五分後の世界には特に魅了された。

私の中で村上龍の最高傑作だ。

その時代を石原慎太郎は自民党の議員として野党に下野し、かつての自民党とは正反対の思想であったはずの社会党との連立政権を組んだ村山富市内閣の中での国会議員として生きた。

彼にとって、それは屈辱だったのかもしれない…。

1995年の春、議員在職25年表彰を受けてすぐに、

「日本は国家としての明確な意思表示をできない去勢された宦官のような国家に成り果てている」

と述べて国会議員としての政界を引退する。

彼は政治家としてのアイデンティティーが崩壊したのだろう。

この時期に石原慎太郎が書いた政治に関する書籍が国家なる幻影 我が政治人生の反回想である。

そこに書いてある内容は当時の自民党が保守政党としての役割を放棄して、外国に顔色を伺う後の旧民主党のようになった当時の自民党への不満に溢れていた。

彼は政治に絶望したからこそ、国会議員の世界から去ったのがわかるような気がした。

当時はおそらく世間は冷ややかに石原をバカにしていたと思うが、後の小渕、森、小泉、安倍総理たちの保守政党自民党の復権を考えると、彼の予想は間違いではなかったように私には感じた。

少なくとも日本人は21世紀、保守政党として復活した自民党を熱狂的に支持した。

しかしその自民党の中に石原慎太郎はもういなかった。

この書籍を読んだ私がゼロ年代の後半に大学2年で書いた論文は、環境庁長官時代の石原慎太郎の環境問題への政策と成果に関連するものだった。

この本の影響で様々な学術論文に当たったが、実は環境問題に真剣にまともに取り組んだ最初の国会議員は石原慎太郎だと思う。

彼は粛々と日本の環境問題、公害問題に真剣に仕事をした。

それは彼が本当に政治でやりたかったことだったかはわからない。
しかし彼は愛国者として戦後の環境問題に間違いなく貢献したと思う。

国会議員を辞めた石原慎太郎は、かつての文学者としての道へと時計の針を進める。

石原は自民党がダメになっていく中で、実は陰では角川書店に弓を引き、幻冬舎を設立した見城徹に会っていた。

俺が、まだお前の役に立つんだったら、何でもやるぞ

彼は四面楚歌の見城に伝えた。

見城徹は石原慎太郎の心の傷となっている亡くなった弟、石原裕次郎の小説を書いて欲しいと頼むことになる。

こうして石原慎太郎が、日本の政治に絶望し、後に失われた10年とも、20年とも言われる時代のはじまりの中で構想したのが、彼が政界を去ったあとに書いた故石原裕次郎と歩んだ若き日の自伝「弟」だ。

この小説が私は太陽の季節よりも大好きだ。

最高に狂っている!

山下汽船小樽支店長の父親の下に生まれた石原兄弟は超お金持ち。

子供のころ弟にムカついて、砂をぶっかけたら弟が目が見えないと言い出して、涙を流せば目から砂が出て見えるようになると考えて、ひたすら殴った。

10代になるとヨットが欲しくなって、父親にねだってみたら、母親が、

「女の子はピアノを買ってもらう時代ですから、ヨットを買ってあげてください。」

とお願いして、兄弟でヨットをゲット。

ってこれが朝鮮戦争の直前の話という超ボンクラぶり。

しかし父親が亡くなって家族はムチャクチャ。

裕次郎は毎日豪快に麻雀三昧。

父の職場のかつての部下たちが便宜してくれた慶應日吉の入試に失敗して、今の慶應志木へ。

家では慎太郎と母は粗末なものを食べているのに、裕次郎は父の遺産で大勢の友人にうな重の大盤振る舞い。

そして石原慎太郎はめでたく芥川賞作家になって、石原裕次郎はそれに乗っかって国民的大スターになりましたとさといった内容の小説だ。

しかし、実は石原裕次郎は、子供の頃に首を無駄に振るチック症状のようなものがあり、家族で新興宗教の寺でお祓いをしてもらったら超回復した。

弟の破天荒な生き方に心身を病んだ慎太郎は、神経衰弱で神奈川県立湘南高等学校を1年留年した。

なんとか一橋大学に入学した慎太郎は、父のかつての部下の人たちに、公認会計士になって家族を守るとカッコつけたけど、全然勉強ができなくてすぐに挫折した。

公認会計士の勉強が辛いので小説を書いたら芥川賞作家になれた。

それでも裕次郎の生活はメチャクチャで、世間では慶應ボーイという設定だが、実は慶應大学を卒業していない。

母を安心させるために、慶応大学の卒業証書の印刷所を調べて、偽の卒業証書を作って母を騙した。

最初の参議院議員選挙では、突然裕次郎が札束を持って来て、アシのつかないお金だから、選挙資金に使えと言われて困り、使わなかったけど、未だに出所がわからない。

弟の死の直前には、びわの葉が良いとの民間療法を聞いて、息子たちを全国に走らせて、びわの葉を全力で集めた。

更には某新興宗教団体が、裕次郎の病気には手かざしが効くと言ったので、その団体の信者も、ファンも、裕次郎が入院する病院の周りで病棟に向けて手をかざしていた。

1995年の議員辞職後に出版されたこの小説は、石原慎太郎の俺様最強論を書きながらも、実は俺様も挫折がたくさんあったんだと、日本の若者に寄り添うような内容がたくさんある。

彼の人生にも光と影が確かにあったのだ。

この小説は平成に出版された昭和史であり、彼なりの三島由紀夫の仮面の告白への挑戦だったのかもしれない。

もしも都知事になっていなければ、また違った石原文学が読めたかもしれないと思うと、いい時代だったなあと思う。

他にもわが人生の時の会話でも、彼は弟裕次郎との最後の会話について書いている。

政治家としての彼は強い人間だったが、書籍の中で見せる彼は繊細な一面をさらけ出す文学者だった。

わが人生の時の時では彼があまり語らない彼が人生の中で対面した運命の瞬間を美しく書いている。
特に船で遭難し、子供とサメのいる海の中で彷徨いながらも、なんとしても我が子を生かそうとするシーンは、あまり知られていない家庭人としての石原の一面が描かれている。

こういった彼の著作に触れ、私は都知事としてマスコミに時に叩かれる彼とのギャップによる彼の魅力に惹きよされられる10代を過ごした。

時に惹かれ、時に嫌悪した政治家、文学者、それが私の中での石原慎太郎だ。

そんな彼の忍ぶ会だ。
呼ばれたら私が行かない理由はない。

石原慎太郎の公式ホームページに掲載がなく会場探しに手間がかかった。

https://www.sensenfukoku.net/

更新が止ったままで、もう彼はいないのだと痛感した。

会場は渋谷のセルリアンタワー東急ホテル

ホテル公式サイトにも今日彼の偲ぶ会があることは掲載されていませんでした。
石原家はしめやかにこれをやりたかったのかもしれません。

あの石原慎太郎の偲ぶ会があるのに、渋谷駅にはそれっぽい人はほとんどなし。

もっと大勢の人が集まると思った。

あの石原慎太郎が死んだのに。

筆者撮影

LGBT政策を進める渋谷は、石原慎太郎の思想とは違うのもあるかもしれない。

なんで渋谷にしたのかは謎。

駅の再開発で会場まで使えない道が多くて不便だった。

筆者撮影

会場案内は液晶で目立たない場所にあった。

筆者撮影


一般的には政治家のこういう会は大きな案内の看板があるが、本当にホテルの目立たないところにあり、ホテルのラウンジで聞かないと見つけることもできなかった。

本当に静かに行われた催しだった。

会場には政財界、文学者の大物が集まっていたけど、会場が狭く、呼ばれたから行ったのに、一般人の私は会場の中には入れず、受付で声だけ聞いた。

それでも私が石原慎太郎の書籍から受けた良い影響、悪い影響は、今後の私の人生で永遠に続くのだと思う。

終わったあとの私がいた受付。

筆者撮影

会場はいくらなんでも石原慎太郎の偲ぶ会としては狭すぎるのではないかと感じた。

よくも悪くも政治家としても、作家としても偉大だった彼の最後の会場がセルリアンの地下2階では、彼に影響を受けた都民が駆け付けるには規模が狭すぎるように感じた。

今までも政治家の催しにいくつか参加した経験があるが、規模は一番ささやかなものだった。

余り石原家が人がたくさん来て欲しくないから、この会を大々的に宣伝しなかったのかもしれない。

13時から15時を挨拶にして、17時までホテルは準備して一般参加者も彼に思いをはせることができるような話を聞いていた。

そうオフレコで石原家関係者筋に説明されて13時ごろ会場入り。

しかし15時で突然会場で会の終わりを宣言。

私も関係者から呼ばれたから、いろんな人に挨拶しないといけなかったけど、挨拶できなくて少し困りましたが、石原家の会だから仕方ないと考えた。

コロナ対策だろうか?

一般参加者も有名人も帰らせた。

後は石原一族の政治スタッフと、石原家だけの会となり、親族がスタッフの挨拶をするけど、プライベートだから予定変更だけど入らないで欲しいとのこと。

まあ政治家でなければ普通はこういう会はそうだろうなと考えた。

とてもわかる。

気持ちは理解できるからここで私も退場。

マスコミも殆どは空気を読んで帰った。

記帳もなしの会でしたので、行った証拠はパンフレットのこれだけ。

もらったパンフ。スタッフに掲載許可を頂きました。
もらったパンフ。スタッフに掲載許可を頂きました。

私にとって石原慎太郎は10代のころからなんとなく気になる存在だった。
そのころには都知事だったが、都知事になる前の書籍をよく読んだ。

特に私が好きだったのは、やはり90年代に国会議員を辞めてから、都知事に理候補するまでの書籍だった。

もしも都知事にならなければ、彼の物書きとしての評価はもっと高くなったように思える。

しかし彼のカリスマ性は都知事への道へと運命は決まっていた。
そして国会議員に帰還することになった。

彼を求める日本人は多すぎたがゆえ、物書きとしての才能は本来のスペックの限界まで今世で発揮しなかったように感じる。

それでも私は90年代の国会議員辞職から都知事選までの間に書いた書籍は、彼の文才を彼の人生の蓄積をもとにして、最高だったように思う。

石原慎太郎は間違いなく戦後赤字を垂れ流し続けた東京を改革した。
それでも私は都知事になる前に書いた彼の文章をもっと読みたいと思っていた。
彼のピークはそこにあったと思う。

灯台よ

汝が告げる言葉は何ぞ

我が情熱は誤りていしや

行ってみて実感したのは、やはり私は石原慎太郎という強くて繊細な彼に魅了されていた。

そしてやはり彼が亡くなったことは深い悲しみなのだと心に刻んだ。

いつか彼の孫で、私と同世代の石原佐知子が都知事に立候補したら応援したなと思った。

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