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多様性の時代だからこそお墓の在り方も見直しませんか?『多様化するお墓 尼僧が伝えたい令和の弔い方』第1章まで無料全文公開!

2022年12月27日にICE新書より出版された書籍『多様化するお墓 尼僧が伝えたい令和の弔い方』(著:釋 龍音)の第1章までを無料全文公開いたします!

はじめに――お墓の在り方が変わってきた

『千の風になって』を新井満氏が訳し、曲をリリースしてから20年の月日が流れました。

 この曲の原題は「Do not stand at my grave and weep」。歌手の秋川雅史さんが歌って大ヒットしたのが2006年のこと。死者となった私はお墓にはいないという死生観が日本人の間にも潜行していると感じさせました。

 昨今の墓じまいブームやお墓参りの代行、仏壇や菩提寺を持たない人・家の増加は、仏教離れとは別の意味で、追悼のかたちが変わってきているせいではないかと思います。すなわち、先祖と子孫をつなぐ装置(拠りどころ)としての家族墓および墓制が変容しつつあるのです。

 故人を弔う儀式であるお葬式も、臨終勤行(りんじゅうごんぎょう)から初七日までフルスペックでおこなう人・家は目に見えて減り、家族葬など小さい規模でおこなうものが主流となって、直葬(じきそう)と言って、ショートカットして火葬場で執りおこなうだけのものまで出てきました。これは多くの識者が語るとおり、日本社会の核家族化が進んだ結果、「家」への帰属意識が薄まり、死をより個人的・私的なものとして捉えるようになったせいでしょう。

 エンディングノートが市販されたり、樹木葬や散骨葬に人気が集まったりするのはそういう背景も横たわっているように思います。

 これと機を一(いつ)にして、お墓の在り方も変化してきました。

 超高齢化社会にあって、平均寿命が延び、病院通いや要介護の期間が長くなれば自ずと医療費・生活費の問題が大きくのしかかり、生きている時間のほうがよほど大切なのは当然のことです。そんな中、お墓にまつわる諸事や死後の面倒事を余裕をもって考えるのは負担が大きく、それを簡素化したいのは自明でしょう。

 一方、親の死を見送る側も、先祖代々のお墓を守るということが難しくなっています。親と子、孫の血のつながりは大切に思っても、それより前の曽祖父母・高祖父母、親類縁者とは身内意識がもちづらくなり、地縁や家制度の縛りにとらわれない関係性の中で私的な祈りを捧げたい、死を悼みたいという人が増えています。

 2022年8月17日付け、朝日新聞の京都版(夕刊)社会面に衝撃的な記事が載りました。南丹市園部町のある集落全員が一緒に墓じまいをおこない、合同墓を建てたというのです。その集落は全戸が一つのお寺の檀家で、住民全員が改葬に合意、住職と話し合いを重ねて、合同墓で永代供養をおこなうことにしたそうです。それほど少子高齢化の波は加速しており、限界集落の問題も考えると、今後このようなかたちの合祀(ごうし)は増えていくだろうと思います。

 本書は、浄土真宗本願寺派教師(僧侶)の私がここ数年感じてきた身の周りのお墓のあれこれをまとめたものです。

 コロナ禍に見舞われた日本はいっそうお葬式やお墓の在り方が問われ、変容を余儀なくされる時代となりました。昔ながらのお墓参りや法事・法要をする人はもちろんそのままでお願いしたいし、変容の先頭を切っている人たちに対しても異論を唱える気は毛頭ありません。これは、従来型(第二次世界対戦後の、一億総中流社会という意識が共有されていた時代)の死生観や死者の弔いに何かしら戸惑いを感じている人へのヒントとして読まれればありがたいと思い、著したものです。

 身近な人を見送る立場になりそうな方も、自らの晩年の始末を案じるようになった方も、21世紀に入った新しい時代のお墓のゆくえについて一緒に考えてみませんか?

第一章 お墓をめぐる現代事情

∟悩み多きお葬式とお墓の問題

 親が突然亡くなり、どうすればいいか、わからない人が増えているのでしょう、昨今は「死後の手続き」のようなガイドブックが多数出版されています。少子化で、成人後に親と離れて暮らしていると、頼れる親戚のおじさん・おばさんに訊ねる機会もなく、葬儀会社の言うままに進行、お葬式後の山ほどある手続きにうろたえる……そういう人がたくさんいるために、出版社は競って実用書を作り、実際かなり売れたようです。

 お葬式のあとに来るのが、お墓の問題です。

 お葬式が年々こぢんまりとしたものになるのと歩調を合わせるように、お墓もコンパクトなものになっていく傾向が見られます。墓地を買って立派な御影石のお墓を建てる人ももちろんいるでしょうが、電車の中でしきりに見かけるのが「納骨堂」や「永代供養」をすすめる広告です。

 同時にまた「墓じまい」という言葉も頻繁に聞かれるようになりました。
 私のようなお坊さんの立場からするとギョッとするような言葉です。お墓が要らないということは、お寺も要らない、ということになるよね? と思うからです。

「墓じまい」という言葉が流行る2~3年前には、お彼岸やお盆に故郷(ふるさと)に帰れない・帰らない人に代わって「墓そうじ代行」業者の出現がメディアで取り上げられました。特にこの3年はコロナ禍もあり、故郷に帰ってお墓参りをする人が激減したような気がします。

 また、貴重なお盆休みに、炎天下、蚊に刺されにお墓に参るよりは、久々に会う旧友と話したり、すっかり年老いた両親に代わって家の中を片づけたりするほうを優先したいですよね。ことに親が90歳前後だと、子どもも50代か60代、70代の場合だってあり、介護する身であればよけいにお墓の世話まで手が回らないのもうなずけます。

 職業柄、小さくなったお葬式に立ち会うこともあるのですが、お坊さんはだんだんお経を読むだけの人、儀式執行の一員としてのキャラクターという存在になりつつあるのを感じます。これは都会の場合ですから、地元密着でお寺と住民の距離が近い場合はピンとこない話かもしれません。

 近年、「家族葬」が当たり前になったのは肌で感じています。家族葬で親族の方にお話をうかがうと自分の家の宗派を知らない人がほとんど。日本にはたくさんの宗派があるのですが、あまり興味もなさそうです。仏教を前提に書きますが、多くの人にとって、「自分ちのお寺さん」(菩提寺[ぼだいじ]と言う)の、お坊さんがいい人かどうか、付き合いやすいかどうかがすべてであり、宗派はたいして関係ないんだなと気づきました。いわんや、直葬をや、です。

 初めて「直葬」に出勤した時は非常に驚きました。
 直葬は、通夜・葬儀・告別式をおこなわない、火葬場で故人をお見送りするだけの葬儀です。身内が亡くなった時に、あとあとの手続きを考えるとどうしても死亡診断書と火葬許可証が要ります。そのため、葬儀社に連絡し、納棺を済ませて、火葬場へ。火葬場でお焼香をして終わりです。

 この時、お坊さんにお経をあげてもらいたいという希望があれば、僧侶が火葬場へ駆けつけますが、不要な場合は、火葬してお骨を拾って終わり。骨壺を持って自宅へ帰ります。故人の長年の友人お一人が参列というケースもありました。老人保健施設に入っている場合は、そこの施設が行政書士とともに執り行う例もあるでしょうし、独居老人(還暦を過ぎた私もそうですが)が急増している現在、直葬がやがて普通になっていくような予感もします。

 もちろん、「葬式無用 戒名不用」と書いた白洲次郎のように故人の遺志を家族が尊重して、直葬に至った例もあるでしょう。
 お墓の話は、お葬式の時代の流れ、スタイルの変化と無縁ではありません。

 高齢化社会と、日本人の長寿、言い換えると社会保障費の逼迫と長い老後により、日本経済の衰退と相まって、「会葬者が多いお葬式」「先祖代々の墓にお骨を納める」スタイルを維持できなくなっているのです。

 少子化はお葬式とお墓の変容を促す大きな要因ですが、すべての原因ではありません。要因はほかにいくつもあるのです。
 無宗教の人も多いですし、個人個人の死生観が大きく変わりつつあります。現実的、物理的な理由もあります。例を挙げると、

  • 独身

  • きょうだいがいない、女だけのきょうだい。きょうだいが高齢

  • 夫婦で子どもがいない

  • 夫婦に娘しかいない

  • 遠方にお墓がある

  • お墓=故人の死を悼む場としての感情が湧かない

  • もっと自由に故人を弔いたい、弔われたい

  • お墓にお金をかけたくない

などです。

 もう一つ、私の元に来る大きな悩み・相談として「夫と一緒のお墓に入りたくない」主婦が多いこと。これはプライベートなことゆえ、ここでつまびらかにはしませんが、夫が亡くなり、その婚家の墓にお骨を納めたあと、自分(妻)は散骨葬や樹木葬を望む女性がとても多いです。

 戦後、日本が民主主義国家になり、女性が参政権を得たのが昭和21年(1946年)4月10日のこと。それから76年、女性の社会参加と自立の精神は今、お墓のスタイルにまで影響を及ぼしているのではないでしょうか。

∟長い老後、のしかかる介護

 老老介護という言葉が表しているように、日本社会は超高齢化の一途をたどっています。

 令和4年版『高齢社会白書』(内閣府発表)によると、令和3年時で「老年人口」と呼ばれる65歳以上の高齢者の割合が25%を超え、4人に1人が高齢者となっています。また、後期高齢者と呼ばれる「75歳以上人口」は1867万人で、総人口に占める割合は14.9%。これは「65歳~74歳人口」を上回っています。

 こうなると当然、要介護者(介護される人)が増えます。要介護者の、その配偶者や子ども、きょうだい等がたまたま面倒をみる余裕があれば問題ありませんが、そうはいかないケースが増えています。老老介護とは、高齢者の介護を高齢者がおこなうことを言いますが、介護する側に深刻な悩みや大きな負担がのしかかっているのが実情です。

『国民生活基礎調査』(厚生労働省2019年)によれば、「要介護者と同居の主な介護者の年齢組み合わせ別割合」は、65歳以上同士の場合が59.7%、75歳以上同士が33.1%となっています。

 そういう背景もあるのでしょう、最近は「認認介護」という言葉まで聞かれるようになりました。

「認認介護」とは言うまでもなく、高齢の認知症患者の介護を、高齢の認知症の家族がおこなうことです。日々の買い物や食事、お風呂、トイレのお世話など、想像するだけで、その家庭がどんなに大変な思いで暮らしているかと胸が詰まります。

 介護の果てに、要介護者の死がやってきます。
 介護をおこなう人は主に配偶者、子ども、子の配偶者、親族、事業者等です。

 老老介護、認認介護では、同居するその年月が長ければ長いほど疲弊し、お葬式のことまで頭が回らないのが現実でしょう。理想は、家族仲良く同居していて、若くて体力のある子どもが家事も介護もこなし、病院にもデイサービスにも連れていってくれて米寿のお祝いなんかもして、経済的にもなんの心配もない状態で要介護者を支える状態……でしょうが、そんなケースはごく限られた家庭しか該当しません。

 筆者の叔母の一人は埼玉県朝霞市のマンションに住んでいて、数年前に入居した施設で亡くなったのですが、子どもがいなかったので姪の私が時折、見舞いに行きました。

 施設に入居したきっかけは、配偶者である叔父の死により、日常生活に支障をきたすようになったからです。頚椎と背中の痛みで牛乳1つ買って帰ることができず、生前の叔父に頼りきって生活していたために、徐々に鬱っぽくなっていきました。体の自由がきかないと、心も風邪をひくのです。ただ、叔母が幸いだったのは叔父が残してくれた不動産があり、毎日声をかけてくださる隣人がいたこと。その隣人と弁護士、行政書士の方々のおかげでマンションを売り、施設に入ることができました。もちろん私も立ち会いましたが、姪は叔母の年金を銀行から引き出すことさえままなりませんでした。委任状を持って役所を訪ねようにも、まず引き出しにいくつも転がっている印鑑がどの通帳のどの捺印かを確認するところから始めるという具合。行政のサービスを受ける手続き一つとっても、身近に世話ができる親族のいない高齢者を支えるのは大変です。

 叔母は70代後半から多少、認知症気味だったのですが(マンションの部屋が足の踏み場もないほど散らかっていたり、掃除機を5台も買ったり)、施設では幸せだったと思います。80歳で亡くなった時、お葬式に参列したのは私と行政書士の二人だけでした。兄である私の父はアルツハイマー、兄嫁である私の母はがん、叔母の姉二人(父の姉)は90歳以上で寝たきり、故郷である九州から埼玉県の郊外の葬儀場に来られる身内は誰もいなかったのです。

 若い頃、叔母は三越デパートの呉服部に勤めていることが自慢でした。ミンクのコートを着て帝国ホテルで食事をしたり、ホームパーティーをしたりしていました。けれど人の一生というのは思いどおりにはなりません。

 要介護2の叔母の、質素なお葬式に出ながら、自分の身の始末をしっかりつけておかなければ周りに迷惑をかける、それだけは避けたい……と私は考えたものです。

∟介護で見えてくる親の死

 要介護者であっても頭がしっかりしていれば、「私が死んだらお葬式はこう、お墓はこうしてね」と周りの者に告げることができます。行きつけのお寺さんや公営・民営の墓地があって、子どもがその遺志を尊重してくれればお葬式のあと、納骨をすればそれで問題はありません。問題が出てくるのは、長い介護生活により、配偶者あるいは子どもの生活や心身に余裕がなくなっている場合です。

 お葬式や納骨を無事済ませても、その先の自分たちの生活はずっと続くのですから、そちらを重視するのは必定(ひつじょう)です。

 現につい最近も、81歳の夫が介護疲れで79歳の妻を殺害するという事件が起きました。報道によれば、被疑者の男性は足が不自由な妻を40年、自宅で介護していたと言います。施設への入所を検討していた最中に、車椅子に乗った妻を港から海に突き落とした罪に問われていますが、日頃、ご近所の人たちはこの男性が献身的に妻の面倒をみる姿を見ていたそうです。
 思い詰めた末にプツンと糸が切れたのでしょう。決して他人事では済まない話です。

 前述した『国民生活基礎調査』では「要介護者等との続柄別・主な介護者の構成割合」についても数値化されています。それによると、主な介護者(配偶者、子、子の配偶者、父母、その他親族)は、要介護者と同居していて、その割合は54.4%。5割強にのぼっています。

 また、介護者の続柄は「配偶者」が23.8%で最も多く、次に「子」が20.7%、「子の配偶者」が7.5%。
 同居している介護者の性別は、女性が65%、男性が35%となっています。男性3割強は意外に頼もしい数字です。というのも、私の出身地、九州では未だに介護は妻や娘、嫁の役割と考えられているフシが見受けられるからです。

 核家族化が顕著な日本では、長男・長女であっても親と同居しているとは限りません。別居の場合、最近はスマートフォンでの親の見守りサービスなどもありますが、安否確認はできても、世話が行き届かないのはやむを得ないところ。顔を見たり手足をさすったりしたくても、実家との距離が離れていると思うように気遣うことができません。

 私の学生時代の同級生は秋田が実家で、きょうだい二人。兄、妹である彼女も東京に住んでいます。
 すでに両親は亡くなり、先祖代々のお墓は新潟にあるとか。実家は一戸建てで秋田に残したまま、雪の重みで潰れてしまうんじゃないかと毎年ひやひやするそうですが、問題なのはお墓。新潟は幼少時にいただけで、その後はあまり縁もなく、親戚の人たちから「先祖代々」と言われても兄はお墓の承継に二の足を踏んでいるとか。兄妹とも大学進学、就職、結婚とすでに東京での暮らしが40年以上になり、墓じまいを考えざるを得ないというのです。

∟お墓が遠い

 子どもが出身地と遠く離れたところで就職したり結婚したりすると、実家との距離が遠のいてしまうケースがあります。帰省したい気持ちがあっても仕事の都合や子どもの成長に伴い、それがままならない状況になるからです。

 先ほど私の叔母のお葬式の話をしました。叔母が埼玉県郊外の施設で亡くなった時、叔母の姉二人は90歳を過ぎ、兄である私の父も80代。叔母に先駆けて亡くなった叔父の身内も高齢で遠方に住んでおり、結局親族でお葬式に出られたのは、姪の私一人でした。お葬式でさえ、こんな状況なので、お墓参りとなるともっと困難なものになるでしょう。

 金銭的な問題もあります。
 私の実家は宮崎なのですが、東京・羽田→宮崎空港の航空運賃は通常期で片道4万円以上します。母が晩年がん、父がアルツハイマーで、急な入院や危篤の報を受けとるたび、私は宮崎に飛びました。夜中の嫌な時間に決まって電話が鳴り、早割などの割引運賃で切符を予約するような状況ではないため、一時期、私は飛行機代を稼ぐために働いているようなところがありました。母とは強い絆を感じていて、最後の2年間はコロナの抗原検査をしながら毎月帰ったものです。

 鹿児島出身の先輩は、家族四人でお盆休みやお正月休みに帰ろうと思っても飛行機代だけで20万近くかかり、けっこうな負担だと言っていました。子どもが成長するにつれ、実家で過ごす夏休みにだんだん興味を示さなくなり、そのうち帰省するのは先輩一人になったとか。親が苦労して私立大学にやってくれたことを恩義に感じている先輩は、親の面倒をみるのは自分だと決めていましたが、60代になって自分が病に倒れてしまいました。

 一方、50代半ばの後輩は実家が新潟で、新幹線が走るようになって帰省がぐっと楽になったそうです。親を見送ってからお墓参りを欠かしませんが、実家のそばに姉夫婦が住んでおり、庭の草むしりなどもしてくれて、お墓もきれい。姉貴さまさまと言うところでしょうか。ただ、彼は長男なので、これから老いて体の自由がきかなくなったりしたらお墓のことで悩む日が来るかもしれません。

∟実家の墓じまいを希望する人の増加

 前述した先輩や後輩の例からもわかるように、地方から上京し、就職、結婚して子どもができると、実家から足が遠のきがちです。やがて親のどちらかが入院したり要介護になったり、亡くなったりして、遠距離でも実家に駆けつける機会が増えていきます。そうして、もう一人の親を見送る時が来ます。あなたが一人っ子なら一人で、きょうだいがいるなら協議しながら、実家の片づけ、家屋の処分、仏壇の廃棄、相続の問題など、さまざまな手続きに追われ、かなりのエネルギーを注ぎ込んで一つ一つ解決していくのです。
 そのような地方出身の中年夫婦・高齢夫婦、未婚の中年、独身の高齢者にとって、避けて通れないのがお墓の問題です。

 実家に帰った時に先祖代々のお墓(累代墓)へ参ったことはあっても、菩提寺との付き合いがなかったり、住職と顔見知りではない場合、お墓を引き継ぐのが億劫になっても不思議ではありません。
 あるいは、公営や民営の墓地に親が眠っている場合も、そこが現在の居住地から遠ければ、お墓参りのためだけに帰省するのは億劫というのが多数派でしょう。
 生まれ故郷の地縁を大事にしている人は別かもしれませんが、都心の生活に慣れ親しんだ中高年にとって、累代墓を守るのは、頭の痛い問題のはずです。

 とはいえ、息子・娘である自分はまだ親のお墓を守るのにやぶさかではないが、自分自身がこのお墓にやがて入るのかと考えた時、子どもたちに墓参りの負担はかけさせたくないというのが人情。そうなると実家のお墓を閉じて、自分の子どもたちに無理をさせないかたち、つまり「墓じまい」が解決策として浮かび上がってくるのです。

 家督を継ぐのが長男とされていた時代を経てなお、昭和から平成のリーマンショックあたりまで、ごく普通に「○○家の長男が先祖の墓を引き継ぐもの」という意識が日本人に刷り込まれていたと思います。

 しかし戦後、急激に進んだ核家族化により「家制度」が空洞化し、社会的魅力を失うと、「先祖代々の○○」という考え方そのものが古くさくなっていきます。
 ○○家の長男は菩提寺の檀家・門徒であり、喪主として葬儀・法要をそこで執りおこない、法事のたびに親戚が集まって会食、住職とも談笑し、お供物をはずみ、立派な仏壇にはいつも花が生けられている……。実は、このような景色は、私の実家のような地方ではまだ普通なのですが、東京にいると温度差を感じずにはいられません。

 さらに少子化とコロナ禍が変容を加速させました。もっともコロナ以前から、子どものいない夫婦や、いても娘だけという夫婦、未婚・独身(離婚した人を含む)の中年は増え続けています。

∟増える一人世帯と「多死社会」

 地方出身者の都市流入について触れておくと、日本人の総人口は1億2483万人(総務省統計局「人口推計」2022年10月1日現在)で、11年連続で減少。出生数(1年間に赤ちゃんが生まれる数)は81万1622人(厚生労働省「人口動態調査」2021年)で、明治32年の調査開始以来、過去最少となりました。

 けれども一方で、東京圏では人口増加が続いており、2018年では約3658万人(国土交通省「東京一極集中の現状と課題」)、これは全人口の約3割にあたります。これに名古屋圏と関西圏を合わせた三大都市圏の人口は、全人口のおよそ5割に相当、著しく都市部に人が集中しているのがわかります。
 東京圏とは法律で定義された用語ではないのですが、東京、神奈川、埼玉、千葉の東京都心から50~70キロメートルの範囲内にあるエリアを指します。つまりそれだけ仕事(雇用)が都市部に集中しているということでしょう。

 次に、結婚についてですが、婚姻数は50万1138組(厚生労働省「人口動態統計」2021年)で、これまた戦後最少を記録。最も多かった1972年の約110万組の半分になりました。

 一般に団塊の世代と言われるのは1947~1949年(昭和22~24年)に生まれた人たちで、終戦からほどなく日本はベビーブームが起こりました。この団塊の世代が結婚適齢期を迎えたのがだいたい1970年代の初め頃で、これは最多の婚姻数を記録した1972年とも合致します。

 万国博覧会が日本で開かれたのは1970年、大阪の地でした。筆者もこの年、初めて新幹線に乗り、家族四人で万博見物に出かけました。岡本太郎の太陽の塔はよく覚えていますが、それ以上に印象に残っているのは、月の石を見るために並んでいるうち気分が悪くなり、救護テントで休むはめになったこと。父親は娘より見物優先で、そのままはぐれ、夜の閉場時間まで会うことができませんでした。

 まさに高度経済成長まっしぐらの時期、日本には明るい未来しか見えておらず、1979年にはエズラ・ヴォーゲル博士著『ジャパン・アズ・ナンバーワン』がベストセラーとなり、1980年代のバブル期へと突入していくわけです。

 さて、人口が減り、結婚するカップルも減少すると、未婚・独身者の数が増えるのは必然と言えます。
「令和2年国勢調査」(総務省統計局)によると、日本の総世帯数は5573万世帯で、人口は減り続けているにもかかわらず、世帯数は増加しているのが特徴です。1世帯(1家族)あたりの人員は2.21人で、これも縮小の一途をたどっています。
 注目すべきは世帯人員が1人の「単独世帯」が約2115万世帯と、最も多いこと。独居老人の問題がクローズアップされるのも当然です。

 未婚率に関しては、男性の生涯未婚率が28.3%で、4人に1人は独身という割合を切っており、この数字は1980年の2.6%と比べると、恐ろしく増えていることがわかります。一方、女性は17.8%。補足しますが、配偶者と死別・離別して現在は独身である人は含まれません。生涯未婚率とは文字どおり、生涯結婚しないであろう人の割合を算出したものです。

 さらに、お葬式やお墓の問題をより複雑にしているのが、離婚です。
 2020年(令和2年)の離婚件数は19万3251組で、増えてはいません。前述した婚姻数が約50万組ですから、ざっくり5分の2が離婚していることになります。

 かく言う私もバツイチの尼さんなのですが、離婚について言うと、同居期間が長い夫婦の離婚、すなわち熟年離婚が増えている点に注目したいと思います。

 同居期間別に見た離婚件数のうち、20年以上同居した夫婦の場合、1985年(昭和60年)が2万434件=全離婚件数の12.3%だったのに対し、2019年(令和元年)では4万395件=20.8%になっています。
 婚姻期間35年以上の夫婦に至っては、昭和60年が1108件だったのが、令和元年は6361件と5倍以上になっているのです。

「おまえ百まで、わしゃ九十九まで。共に白髪の生えるまで」と、仲良く歳をとる夫婦もいる一方、そうではない夫婦もいるということ。私自身もそうですが、まぎれもなく現代の世相を生きているということです。

 これらの離婚の状況は、お墓のことにも大きく関わってきます。
 というのも、女性は離婚すると、元夫のお墓(嫁ぎ先のお墓)には入れず、生家(自分が生まれた家)のお墓にも入りづらい立場になります。きょうだいの誰かが生家を継いでいて、お墓の骨壺保管スペース(カロートと言います)に余裕がある場合はともかく、一度家を出た人間(俗に言う、出戻り――私もです)が実家のお墓に入るのは躊躇してしまうのが現状ではないでしょうか。

∟進む寺離れ

 お墓の承継や維持管理を億劫がる理由の一つに、お寺から法外なお布施を要求される=菩提寺にかかる費用が高額というのがあります。
 今まで見てきたように、お墓のことで悩む人は、子どもがいない、娘しかいない、独身、遠方に住んでいる、高齢、などがその背景にありました。

 しかし、寺院墓地の側からすると檀信徒・門徒の減少は、そのまま寺の運営を直撃する要因になります。

 私も実家を出て独立するまではお寺がこんなに人気がないとは知りませんでした。特に東京で就職し、一労働者として働いていると、お寺やお坊さんの悪口が耳に入ってきます。
 仏教は今を生きるための教えなのに、「葬式仏教」「生臭坊主」と揶揄されて久しく、なかなか仏教界に明るい光が射す気配はありません。

 なぜでしょうか。古いしきたりに囚われているからでしょう。
 歴史が古いお寺ほど、古さが格式につながっているために、慣習に縛られているほうが楽なのかもしれません。

 その昔、中国で漢訳されたお経を、サンスクリットとは遠い音韻で読経することにそれほど意味があるとも思えませんが(法事で「お坊さん、お経は短くしてね」とリクエストされることもしばしば)、深い思想がそこに宿っているなら、生きる人のよすがとなるよう僧侶は動くべきです。

 たとえば夫を亡くした高齢の妻が、お葬式を済ませたものの、良いお墓が見つからなくて納骨できず、いつまでも自宅に置いておくケースがまま、あります。四十九日の法要までになんとか、一周忌までになんとかしたいと思っても、お坊さんへのお葬式のお礼を皮切りに初盆、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌……と、檀信徒・門徒としてエンドレスにお付き合いするにはお布施の負担が大きいと感じるのでしょう。

 余談ですが、ここで年忌法要について触れておきます。

 故人の命日を基準に、翌年におこなうのが一周忌、二年後におこなうのが三回忌です。六年後が七回忌、十二年後が十三回忌で、私の実感ではこのあたりで終了するのが世の流れのように感じます。
 けれど一般には、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌と続き、そこで「弔い上げ」と称する場合が多いです。

 また、真言宗は二十三回忌と二十七回忌を省略し、二十五回忌を営みますし、天台宗、曹洞宗、臨済宗もそのようにしている地域・お寺があるようです。土地柄やしきたりもあるので、まちまちです。五十回忌をおこなうこともありますが、これはもうかなりのレアケースです。

 私が得度した浄土真宗は「亡くなったら即、極楽浄土に往生する」という教えで、「善行を積み重ねないと往生できない」という考え方とは少し違います。ですので故人の追善供養のために年忌法要をおこなうことはせず、法事は親族が集まって故人を偲ぶ場となります。なお、日蓮宗には弔い上げという概念はないと聞いています。

 個人的には、年忌法要の限界は、故人の記憶が遺された人たちから薄らいでいき、死者の骨が土に還るのに妥当な時間=想いが無になる時間、が三十余年という歳月なのかなと思います。

 寺離れが加速している理由には、お寺への不信感もあるでしょう。
 これは東京にいると肌で感じることですが、「あのお寺は儲かっている」「法外な永代供養料を要求された」「住職ジュニアがわがまま坊主で、お説法なんか聞いていられない」など、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い話をよく耳にします(実際に寺院の境内にランボルギーニで乗りつけるお坊さんも知っていますし)。

 しみじみと慈光のごとく寄り添うお坊さんもいますが、多くの宗派に分かれ宗教法人が林立している仏教界の中には、心が寒くなるようなお坊さんもいることでしょう。仏教系の大学を出てお寺の跡継ぎになる人は特に、ひとたび自寺の山門を出たら厳しい視線にさらされることを知っておいたほうがいいと思います。

∟遠くのお墓より近くの納骨堂

 しかし、お寺のほうもさすがに時代の変化を感じとっています。
 その家を継いだ男子(長男)が代々お墓を引き継ぐという原則では、立ち行かなくなっていることに気づいているのです。

 最近は、男子がいない家では女子が承継したり、長男に限らず、きょうだい全員そのお墓に入れたり、夫婦墓(めのとばか)を認めるところが出てきています。また、夫と妻の両家の家名を記銘した「両家墓」もあります。

 宗派にこだわらず門戸を開くお寺も増えています。
 公営や民営の墓地、霊園が、宗派を問わず購入できる(法的には使用料を払う借地と同じで、使用権を買う)自由度の高さで人気があるのを見て、これはイカンと思ったのでしょうか、お寺の境内の一角に納骨堂を建てるお寺が急増しています。いえ、境内の一角とは限りません。宗教法人が石材業者や不動産会社などと連携して、お寺の敷地とは別の場所に建てる場合もあります。

 納骨堂が急増しているのはニーズがあるから。
 そのメリットをまとめると、

  • 近場ですぐにお参りできる

  • お墓に比べると購入費が安い

  • 雨に濡れたり寒かったり暑かったりすることもなく、快適

  • 管理する必要がない(管理料を払うだけ)

  • お墓を維持するよりずっと気楽

 などが挙げられます。

 納骨堂にも種類があります。大きく分けて、アナログな仏壇・ロッカー・棚に骨壺を納めるスタイルと、ICカードを読ませて参拝スペースに骨壺が運ばれてくるデジタル方式の、2つです。

 都心で目下、増えているのは後者のデジタル方式。近未来のビルに仏教アートをちりばめたような造りで、音響・照明ともお金をかけているなと感じます。骨壺を納めた容器(厨子[ずし]と呼ぶところもあるようです)も蒔絵で豪華、自動搬送で参拝スペースの墓石の上に設置される様を見ると、これがこれからの潮流になるのかとさえ思えてきます。実際に、どの電車の吊り広告にも宣伝文句が躍っているし、マーケティングのプロが運営する側にいるのでしょう、ビジネスとして稼働している印象があります。

 私のように田舎の小さなお寺で、母親が門徒さんに手作りの煮〆や野菜のバラ寿司を振る舞う姿を見てきた身には縁遠い世界で、ふと心配になってしまいます。地震大国ニッポンで、また巨大台風や洪水に見舞われて、電源が喪失したら、どうなるのだろうと。

 自然災害だけではありません。
 つい最近、倒産した納骨堂の話がニュースになりました。2022年10月、札幌市の白鳳寺が運営する納骨堂、御霊堂元町が経営破綻し、遺骨を引き取りに来た人たちが中に入れず、宗教法人代表に説明を求めている由。7月にその建物は競売にかけられ不動産会社が落札したのですが、その後も宗教法人の代表が納骨壇を販売し続けていたことがわかり、札幌市役所や裁判所が解決に乗り出す構えとのこと(2022年11月時点)。

 この倒産の報を聞いて、青くなった宗教法人も多いのではないでしょうか。
 納骨堂は、大きいところになると何千基(壇)もの容れ物を擁しています。
 お寺の住職が思いついたアイデアで建設できるものではなく、建築業者や機械メーカーをはじめ、複数の利益が絡み合い、億単位のお金をかけて完成させます。従って、供給過多になると、あっという間に火の車になってしまうのです。

 納骨堂を建てられるのは公益法人か宗教法人のみ。お寺にそんなお金がない時は民間企業がお寺の名義を借りて資金を出し、建設します。民間企業は営利目的なので、慈善事業としての志は低く、お骨を納めた遺族の気持ちまで推しはかることは難しいかもしれません。

 経営破綻するのはデジタル方式に限りません。
 市街地だから需要があるだろうと見込み、建てたものの、思うように売れなくて困っている納骨堂もあります。
 少子化、多死社会、墓じまいの増加という時代の波に乗ったはいいけれど、リスクを考えなければ、大きな負債を背負うことになるのです。

 2020年(令和2年)の時点で、納骨堂は全国に1万3038施設あります。それまでのお墓を閉じて納骨堂などに改葬する(遺骨を移す)件数は約12万件。
 一見、改葬の受け皿は納骨堂だろうと思いがちですが、実は以前のお墓の形態から別のスタイルを選ぶ人も多いのです。これについては、第三章で詳しくご紹介します。

 そもそも論になってしまいますが、納骨堂は本来、遺骨を安置する施設です。お骨に向かって手を合わせる(合掌する)のは、骨に魂が宿っていると考えるからでしょうか?

 モニュメントとして祈りを捧げる対象はお骨だけでしょうか?
 亡き人を偲び、その死を悼んで、拝む場所はほかにもあるはず。

 次章ではそんなことも考えていきたいと思います。

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無料版はここまで。以降では、樹木葬や散骨葬など、言葉は聞いたことがあるけれど実はよくわからない――そうした弔い方についてなども実例を挙げて詳しく解説します。さらにLGBTQとお墓の問題についても言及し、曖昧に受け継いできたお墓をどうするか、選択肢を広げる内容となっています。

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