辻貴之

私は元高校教諭ですが、『「憲法9条信者」が日本を壊す』などの著作があります。いまnot…

辻貴之

私は元高校教諭ですが、『「憲法9条信者」が日本を壊す』などの著作があります。いまnote上で「昭和史サイエンス」を連載し始めました。脳科学や心理学の最新の知見を利用すれば、日本近代史は従来のものと大幅に変わるはずです。ここで新しい日本近代史像を示したいと考えています。

最近の記事

不定期に書きます

まだ私の連載に興味持っていただける方がいますので、 日本近代史の新しい見方などが見つかったときは、ここにアップします。 こんにちの研究では、江戸末期の尊皇攘夷運動と昭和の激動はそっくりではなかったか、という見方が出ています。 尊皇攘夷(江戸末期)→明治・大正(アジア主義・大陸進出)→昭和の激動 との流れです。江戸末期の尊皇攘夷運動と昭和の激動の間には、「日本が東洋の盟主となる」「アジアを近代化・文明化するのが日本の使命」であるというアジア主義が、メディアを含む在野勢力や野党に

    • 連載が終わりました。

      「昭和史サイエンス」の連載が、終わりました。 これからもう一度原稿をブラッシュアップするつもりですが、 この蘭に連載することはありません。 「昭和史サイエンス」をご覧いただいた方々に、お礼申し上げます。                       辻貴之

      • 「昭和史サイエンス」(120)

        昭和20年8月  日本政府は最終的に、ポツダム宣言を受諾します。ただ受諾する方向に傾いたのは、8月9日以降のことです。7月26日に発表されてから、かなりの時間が経過しています。日本政府はこの間、ソ連による仲介工作に期待を寄せていたのです。鈴木多門『「終戦」の政治史』(東京大学出版会)から引用します。  八月八日午後五時(日本時間午後一一時)、モスクワの佐藤大使は、ソ連のモロトフ外相と面会した。だが、その回答は日本側の期待を裏切るもの  であった。モロトフ外相は、佐藤大使に

        • 「昭和史サイエンス」(119)

          ポツダム宣言  1945(昭和20)年7月26日、イギリス・アメリカ・中華民国の名において、日本への降伏要求の最終宣言が発表されました。ポツダム宣言です。  7月17日から8月2日にかけて、ベルリン郊外のポツダムにイギリス・アメリカ・ソ連の3首脳が集まり、第2次世界大戦の戦後処理が話し合われました。非常に重要な会議です。  ただしポツダム宣言には、ソ連のスターリン書記長の署名がありませんでした。日本政府はそれを誤解して、ソ連は日本に対し好意的なのだと解釈したのです。「見たい

        不定期に書きます

          「昭和史サイエンス」(118)

          昭和20年7月  ソ連の仲介による早期戦争終結の方針は決まったものの、その後の動きは遅いものがありました。この方針を主導するのは外務省ですが、東郷茂徳外相は慎重に進めようとしていました。  近衛文麿に天皇の親書をもたせてソ連に派遣することが決定されるのは、7月12日になってからのことでした。特使として近衛が選ばれた経緯について、鈴木多聞【たもん】・東京大学大学院総合文化研究科学術研究員の『「終戦」の政治史』(東京大学出版会)から引用します。  日本は、近衛文麿をモスクワに

          「昭和史サイエンス」(118)

          「昭和史サイエンス」(117)

          昭和20年6月  昭和20年6月8日、戦争終結に反対する強硬派が反撃を試みます。天皇も臨席する御前会議において、「今後採るべき戦争指導の基本大綱」が決定され、あくまで戦争を完遂するとして本土決戦計画の強化が決定されました。実際に帝国議会では、本土決戦に備えて政府に広範な権限を与える戦時緊急措置法などが成立しました。この時期、沖縄での戦いは戦局悪化の一途を辿り、本土空襲も激しさを増している状況でした。  そうした動きのある一方で、この御前会議の直後、内大臣の木戸幸一が対策を講

          「昭和史サイエンス」(117)

          「昭和史サイエンス」(116)

          昭和20年5月  5月7日、日本の同盟国であるドイツが連合国に無条件降伏し、ヨーロッパでの戦争は終結します。ヒトラーは前月末に、総統官邸にある地下壕で自殺していました。ドイツ降伏を受け、トルーマン大統領は日本に対しても降伏を勧告する声明を発表します。この声明で注目すべきは、日本に対し完璧な無条件降伏を求めていないことです。波多野澄雄・筑波大学名誉教授の『宰相鈴木貫太郎の決断』(岩波現代全書)から引用します。  トルーマン(中略)も無条件降伏方針を継承していたが、ドイツ降伏

          「昭和史サイエンス」(116)

          「昭和史サイエンス」(115)

          鈴木貫太郎内閣の発足  小磯国昭内閣が倒れ、後継首班には枢密院議長の鈴木貫太郎が選ばれます。東条英機、小磯と陸軍出身者が続いたので、今回は海軍出身の鈴木が抜擢されることとなりました。同じく海軍出身の元首相、岡田啓介が主導した形です。鈴木内閣は昭和20年4月7日に発足し、終戦後の8月17日に退陣します。  主要閣僚を紹介すると、外相に東郷茂徳、陸相に阿南惟幾【あなみこれちか】、海相に米内光政がそれぞれ就任し、内閣書記官長には迫水久常が就きます。迫水は、岡田啓介の娘婿です。迫水

          「昭和史サイエンス」(115)

          「昭和史サイエンス」(114)

          「近衛上奏文」を真実と考える研究者  前述したように、「近衛上奏文」は正しいと考える研究者が増えつつあります。従来は状況証拠のようなものしかなかったのですが、平成25年8月12日付の産経新聞の記事は直接証拠を示し、とりわけイギリスの公文書から発掘されたのですから、正しいと考える研究者が増えるのは自然の流れでしょう。  産経新聞による同記事には、日本近代史研究者の半藤一利と中西輝政・京都大学名誉教授のコメントも掲載しています。両氏とも、「近衛上奏文」の内容は基本的に正しいと考

          「昭和史サイエンス」(114)

          「昭和史サイエンス」(113)

          「近衛上奏文」については従来、研究者の多くがその信憑性を疑っていました。単なる与太話にすぎない、と考えていた研究者もいたほどです。しかし近年では、そうした状況も変わりつつあります。「近衛上奏文」は基本的に正しかったのでは、と考える研究者が増えてきたのです。  きっかけは、松浦正孝・北海道大学助教授が東京大学出版会の雑誌『UP』に投稿した論文「宗像久敬ともう一つの終戦工作(上・下)」です。宗像は昭和20年3月3日、内大臣の内大臣の木戸幸一に会いますが、それに関連して、同論文(下

          「昭和史サイエンス」(113)

          「昭和史サイエンス」(112)

          近衛上奏文  小磯国昭内閣期に、もう1つ重要な出来事がありました。昭和20年2月14日、近衛文麿が天皇に上奏した話の内容、いわゆる「近衛上奏文」は、本書のテーマからしてきわめて重大なものです。近衛上奏文とは、「国体護持の立場より憂うべきは、敗戦よりもこれに伴う共産革命」という点が主眼となったものです。  なるほど、日本国内で敗北必至の状況を悪用して、実質的な共産革命を起こそうという動きも実際一部にあり、史料からも確認できます。  ただ、この言葉をより広義に解釈して、太平洋戦

          「昭和史サイエンス」(112)

          「昭和史サイエンス」(111)

          小磯内閣と日ソ連携  小磯国昭内閣は昭和19年7月に発足し、翌年4月7日をもって総辞職します。閣僚で注目すべきは、外相は重光葵【しげみつまもる】が留任して大東亜相を兼ね、海相には首相経験者の米内光政が選ばれ、朝日新聞主筆などの経歴のある緒方竹虎【おがたたけとら】が国務大臣兼情報局総裁に就任します。緒方は現在でこそ忘れられた政治家になってしまいましたが、昭和史を語るうえで欠かせない人物です。  小磯内閣の実績は、乏しいものがあります。ただ、この小磯内閣期に、日本はソ連との連携

          「昭和史サイエンス」(111)

          「昭和史サイエンス」(110)

          開戦以後の東条内閣  真珠湾攻撃は、戦術的には大成功でした。アメリカ太平洋艦隊の艦船に大きな打撃を与えました。さらにその2日後の12月10日、マレー沖海戦により、イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが、日本海軍の陸上攻撃機の空襲により撃沈されました。そのうえ昭和17年2月には、イギリスの東南アジアの根拠地、シンガポール要塞を陥落させるなど、緒戦の攻防は作戦どおり順調に進みます。  ただし、対英米開戦後の2年間、戦局は日本有利に推移するという期待は、昭和

          「昭和史サイエンス」(110)

          「昭和史サイエンス」(109)

          「海の関東軍」であった連合艦隊  木村聡・別府大学専任講師の『聯合艦隊』(中公選書)が注目されています。日本人の多くが抱いていた連合艦隊のイメージを、大きく塗り替えたからです。そしてその終章は、「海の『関東軍』」というタイトルです。  「はじめに」の一部を引用します。太平洋戦争期の連合艦隊は、満州事変を起こした関東軍の暴走に匹敵する行動が少なからずあったと指摘しています。  一方、海軍では、統帥権を理由に現場組織が中央の意向を無視するばかりか、中堅層が上層部の意向を無視、

          「昭和史サイエンス」(109)

          「昭和史サイエンス」(108)

          対米開戦の口実だったハル・ノート  長谷川毅・カルフォルニア大学教授の『暗闘(上)』(中公文庫)から引用します。  ハル・ノートが出された背景には多面的な要因がある。アメリカ民主主義の感情的なプライドや大衆の好戦主義という性格がある。十一月末日までの交渉期限で妥結を迫る日本軍部の威嚇外交に対して、対日戦準備の時間を稼ごうとしたアメリカが、プライドにかけて軍国主義日本に屈せずとして見せた感情的反発と、逆に威嚇する恫喝的態  度で経済的弱者の日本から譲歩を引き出したかっ  た

          「昭和史サイエンス」(108)

          「昭和史サイエンス」(107)

          東郷外相とハル・ノート  東郷重徳は戦後、獄中で執筆し、自伝的回想録『時代の一面』(中公文庫)を著しています。そのなかで東郷は外相として、ハル・ノートの全文を読み終えた際の心境を語っていますので引用します。  しかしここに自分の個人的心境を顧れば、「ハル」公文に接した際の失望した気持ちは今に忘れない。「ハル」公文接到までは全力を尽して闘いかつ活動したが、同公文接到後は働く熱を失った。(中略)戦争を避けるために眼をつむって鵜呑みにしようとしてみたが喉につかえて迚【とて】も通

          「昭和史サイエンス」(107)