「昭和史サイエンス」(120)

昭和20年8月

 日本政府は最終的に、ポツダム宣言を受諾します。ただ受諾する方向に傾いたのは、8月9日以降のことです。7月26日に発表されてから、かなりの時間が経過しています。日本政府はこの間、ソ連による仲介工作に期待を寄せていたのです。鈴木多門『「終戦」の政治史』(東京大学出版会)から引用します。

 八月八日午後五時(日本時間午後一一時)、モスクワの佐藤大使は、ソ連のモロトフ外相と面会した。だが、その回答は日本側の期待を裏切るもの  であった。モロトフ外相は、佐藤大使に対して対日参戦宣言を手交し、ソ連はいまだ有効であった日ソ中立条約を破棄してポツダム宣言に加入した。  (中略)
 一般的に、日本はソ連参戦を予想できなかったといわれるが、これは正しい歴史理解ではない。日本の予想が外れたのは、ソ連参戦の有無ではなく、ソ連参戦の時期に関する予想であった。(中略)
 ソ連参戦の報を受けて、日本の政局は一気に動いた。すなわち最高戦争指導会議(一〇時三〇分――一三時三〇分)、第一回閣議(一四時三〇分――一七時三〇分)、第二回閣議(一八時三〇分―二二時二〇分)を経て、第一回御前会議(二三時五〇分)へと流れ込んだのである。昭和天皇は、午前九時五五分、木戸内大臣に対し、「戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思ふ故、首相と充分懇談する様に」と指示を出した。

 ソ連参戦によって、ソ連を仲介とした終戦工作が破綻しました。換言すれば、日本政府は、ソ連を仲介とした終戦工作が破綻したことを知り、それでもってポツダム宣言を受諾する方針を決定したのです。原爆投下がポツダム宣言受諾を促した、との研究者の見解もありますが、ソ連参戦のほうがウエイトは大きかったのではないでしょうか。
 8月14日、2回目の御前会議が開かれ、ポツダム宣言受諾が正式に決定されました。こうした経緯はよく知られているので、本書では省略します。
 日本政府は太平洋戦争開戦に際して、大きな誤りを犯しましたが、終戦のときも同様だったのです。

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