「昭和史サイエンス」(111)

小磯内閣と日ソ連携

 小磯国昭内閣は昭和19年7月に発足し、翌年4月7日をもって総辞職します。閣僚で注目すべきは、外相は重光葵【しげみつまもる】が留任して大東亜相を兼ね、海相には首相経験者の米内光政が選ばれ、朝日新聞主筆などの経歴のある緒方竹虎【おがたたけとら】が国務大臣兼情報局総裁に就任します。緒方は現在でこそ忘れられた政治家になってしまいましたが、昭和史を語るうえで欠かせない人物です。
 小磯内閣の実績は、乏しいものがあります。ただ、この小磯内閣期に、日本はソ連との連携を強めようと考え、そうした構想が後継の鈴木貫太郎内閣にも引き継がれたのは、非常に重要なポイントです。戸部良一ら3氏が編集した『<日中戦争>とは何だったのか』(ミネルヴァ書房)の第9章に、波多野澄雄・筑波大学名誉教授の論文「国共関係と日本」が所収されていますので、そこから引用します。引用文にある「宗像」とは、宗像久敬【むなかたひさのり】のことで、近衛文麿や木戸幸一とも親しく、日本銀行に勤務していた人物です。

 近衛にも面会していた宗像は、「日本が率直に米と和し(時期は別として)民主主義を容れ、皇室及び国体を擁護するや、ソビエットと手をにぎり  共産主義でゆくべきかは之は大なる問題なり」とその日記に認めているが、共産主義の浸透に対する危機感は、二つの和平論を生んでいた。一つは、  共産化を避けるためにも米英との直接和平を急ぐべきだという近衛らの和平論であり、もう一つは、この際、共産主義の浸透をある程度容認すること  を条件に、ソ連を仲介とした和平論を模索するという方向であった。
 結局、日本政府は後者を選ぶことになるが、「国体の破壊」に繋がり兼ねない共産主義の際限のない容認は避けねばならなかった。そこで、第三の  和平論として、中国における容共を武器として、「日中ソ提携」という構想が浮上する。
 すなわち、日本政府は、中国共産党を独立した「延安政権」と認めることを前提に、共産党に大きな影響力をもつとみなされたソ連を利用して、延安政権(共産党)と重慶政権(国民党)との妥協、あるいは日本と重慶政権との和平斡旋を促そうとするのである。つまり、日中戦争を対米英戦争とは切り離して終結させるため、「容共政策」をもってソ連と中共を引きつけ、日ソ支提携の素地を作ろうとしたのである。これを推進した重光外 相の構想は、中国における容共政策だけではなく、「東亜の解放」や民族主義の尊重という政策は日ソ共通のもの、と説く点でも特徴的であった。
 日中ソ提携構想は、一九四五年四月中旬の最高戦争指導会議において了承され、「日中ソ極東安全保障」の構想として、六月からの広田・マリク会  談でも提案されたのである。言うまもなく、ソ連がこれを受け入れることはなかった。

 小磯内閣は昭和20年4月7日総辞職し、後継首班には海軍出身で枢密院議長の鈴木貫太郎が選ばれました。小磯内閣が退陣する直前、ソ連は日本に対し日ソ中立条約の不延長を通告し、この通告により、翌年4月には同条約は失効することになりましたが、それにもかかわらず、日本政府のソ連への傾斜は止まらなかったのです。

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