「昭和史サイエンス」(118)

昭和20年7月

 ソ連の仲介による早期戦争終結の方針は決まったものの、その後の動きは遅いものがありました。この方針を主導するのは外務省ですが、東郷茂徳外相は慎重に進めようとしていました。
 近衛文麿に天皇の親書をもたせてソ連に派遣することが決定されるのは、7月12日になってからのことでした。特使として近衛が選ばれた経緯について、鈴木多聞【たもん】・東京大学大学院総合文化研究科学術研究員の『「終戦」の政治史』(東京大学出版会)から引用します。

 日本は、近衛文麿をモスクワに派遣するにあたり、どのような条件と「土産」を持参するつもりであったのか。まず条件の問題であるが、一九四五年上旬から、陸海外の秘書官クラスがこの問題を討議している。出席者は、外務省の加瀬俊一、海軍の高木惣吉少々、陸軍の松谷誠大佐、内大臣秘書官長の松平康昌の四人であった。この四人はそれぞれ上司の密命によって「時局収拾」の研究をしており、近衛特使の訓令案もこれらのグループが起草している。

 ソ連に終戦工作の仲介を依頼する場合、日本がソ連に対し大きな譲歩を示す必要がありました。その中身はどのような内容だったのか、同じく『「終戦」の政治史』から引用します。

 高木少将が豊田副武軍令部総長に提出した「日ソ新関係設定に関する腹案」という意見書によれば、「友好増進上ノ措置」として「〇満州国内関税  障壁ノ撤廃、〇満州国内、ソ連人ノ居住営業ノ自由。〇日ソ間特別関税措置ノ実施。〇日ソ支を包括する東亜安全保障機構の設定。〇已ムヲ得ザル  場合、元、東清鉄道ノ譲渡、〇攻守軍事同盟ノ締結(二〇年程度)。(対米英ヲ主体トス)◯ 「ソ」の南洋進出ニ関スル協力(前項トモ関連セシム)」が挙げられている。ソ連と二〇年程度の軍事同盟を締結し、ソ連を南洋諸島に進出させ、東アジアにおける米ソ対立を誘致し、相対的に日本の地位を確保しようという構想である。これは戦後、ソ連の勢力下に入ることを暗に意味していた。さすがに、最終報告書ではこの軍事同盟案は削除され  ていたが、海軍は、ソ連が戦争終結に好意的斡旋を行うのであれば、その要求を全面的に受け容れる予定であった。高木少将と共に和平条件を研究していた藤井茂海軍大佐は「今後三〇年、対蘇親善政策ヲ変更セザルコトヲ示スコト」を高木少将に進言している。

 なお、この特使派遣の提案は、実現しませんでした。やはりソ連の時間稼ぎに利用されただけでした。

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