「昭和史サイエンス」(119)

ポツダム宣言

 1945(昭和20)年7月26日、イギリス・アメリカ・中華民国の名において、日本への降伏要求の最終宣言が発表されました。ポツダム宣言です。
 7月17日から8月2日にかけて、ベルリン郊外のポツダムにイギリス・アメリカ・ソ連の3首脳が集まり、第2次世界大戦の戦後処理が話し合われました。非常に重要な会議です。
 ただしポツダム宣言には、ソ連のスターリン書記長の署名がありませんでした。日本政府はそれを誤解して、ソ連は日本に対し好意的なのだと解釈したのです。「見たいものを見て、見たくないものは見ない」という確証バイアスが強く機能した事例だったのかもしれません。長谷川毅『暗闘(上)』(中公文庫)より引用します。

 日本政府は、ポツダム宣言にスターリンの署名がないことに真っ先に注目した。そのため日本政府は、ポツダム宣言を受諾して降伏するよりも、ソ連の仲介を通じて戦争を終結する従来の政策を継続した。スターリンが必死で共同宣言に参加しようとする試みは惨めな失敗に終わってしまったが、この失敗がむしろ、日本がいっそうソ連の斡旋を頼みの綱とする政策を継続するという、棚から牡丹餅の結果をもたらしたのである。

 ポツダム宣言が発表された時点で、ソ連は対日戦争に加わっていません。それを表向きの理由にして、実際はソ連の対日影響力を弱くするため、アメリカのトルーマン大統領は、ポツダム宣言へのソ連署名を拒否しました。同盟通信社の記者であった森元治郎【もりもとじろう】は、東郷茂徳外相の言動を近くで見ていて、以下のように述べています。『ある終戦工作』(中公新書)から引用します。引用文にある「佐藤」とは、駐ソ連大使の佐藤尚武【なおたけ』のことです。

 七月十七日からベルリン郊外のポツダムで会合していた英(チャーチル首相)、米(トルーマン大統領)、支(蒋介石主席)の三巨頭は、連名で二十  六日「三国共同宣言」を発表した。その要点は、今や日本はわがままな軍国主義で進むのか、理性ある途を履むのかを決定すべき時期であると前置きして、われらの条件左の如しと示している。
(中略)
 スイス駐在の加瀬公使から「本宣言は受諾して可なり」、また佐藤大使からは「加瀬電の転電を読んだが、全幅的に賛成である」との意見具申があ  ったが、東郷は素知らぬ顔。
 彼は、この期に及んでもなおモスコーの空を眺  めていた。愚直というべきか?

 佐藤大使は従来から、ソ連を仲介とする終戦工作に否定的であって、幾度も外務省に意見具申していました。ただ東郷外相はソ連に好意的なあまり、「聞く耳」をもっていませんでした。

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