「昭和史サイエンス」(108)

対米開戦の口実だったハル・ノート

 長谷川毅・カルフォルニア大学教授の『暗闘(上)』(中公文庫)から引用します。

 ハル・ノートが出された背景には多面的な要因がある。アメリカ民主主義の感情的なプライドや大衆の好戦主義という性格がある。十一月末日までの交渉期限で妥結を迫る日本軍部の威嚇外交に対して、対日戦準備の時間を稼ごうとしたアメリカが、プライドにかけて軍国主義日本に屈せずとして見せた感情的反発と、逆に威嚇する恫喝的態  度で経済的弱者の日本から譲歩を引き出したかっ  た側面もあった。ここにチャーチルが介入してアメリカの対日譲歩を巧みに阻み、対日参戦を決意させ、結果的に重慶政府を救った。対日戦挑発を狙った最後通牒とだけ見るのはこの手のアメリカのプライドや感情的世論を理解しない解釈で、ハル・ノート冒頭に「合意の基礎となる非拘束的な試案概要(中略)と表示されていることからも、厳しく無条件受諾を迫ったものではなく、交渉次第ではアメリカも譲歩する余地を示した提案だった。

 ハル・ノートに示されたアメリカ政府の提案も、日本側には受け容れがたい面がありましたが、日本側の提案はより強硬なものでした。再び河西晃祐『大東亜共栄圏』(講談社選書メチエ)から引用します。引用文にある「賀屋」とは、蔵相の賀屋興宣【かやおきのり】のことです。

 外交交渉によって開戦を避けようとした東郷や賀屋が頼みの綱としていたのは、「甲案」よりも踏み込んだ妥協案「乙案」であった。だがその乙案  にしても、日本側から提示できる譲歩は仏印からの撤退どまりであって、アメリカが求めていた中国大陸からの撤兵や三国同盟からの離脱に応じるものではなかった。
 その予測は当たることになるのだが、即時開戦を決意すれば二年間は優位に戦える、だがそうでなければ、東條が「此際米の対日態度は攻守素より予測し難きも、もし積極的に挑戦し来らは、我れは屈服の他なからん」と答弁していたように、三年目以降には戦わずに負けてしまう。この二者択一を迫られた時に選択されたのが即時開戦となったことは、合理性があったのではなかったか。

 同書はまた、以下のようにも指摘しています。

 日米交渉の最終段階、ハル・ノートが提示される三週間も前の時点ですでに、「譲り得る限度てやり、之れさへきかないのならは米は戦争をやる積  【つも】りたい云ふことも分り、内外に対し公明なる大義名分も立つ」というように、元々は開戦反対派であった東郷すらも、開戦の責任をアメリ  カに転嫁する機会を狙っていたのであり、ハル・ノートはその口実を与えた以上のものではなかった。そして一二月八日、真珠湾攻撃が行われたの  である。

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