「昭和史サイエンス」(113)


「近衛上奏文」については従来、研究者の多くがその信憑性を疑っていました。単なる与太話にすぎない、と考えていた研究者もいたほどです。しかし近年では、そうした状況も変わりつつあります。「近衛上奏文」は基本的に正しかったのでは、と考える研究者が増えてきたのです。
 きっかけは、松浦正孝・北海道大学助教授が東京大学出版会の雑誌『UP』に投稿した論文「宗像久敬ともう一つの終戦工作(上・下)」です。宗像は昭和20年3月3日、内大臣の内大臣の木戸幸一に会いますが、それに関連して、同論文(下)は以下のように記述しています。

 ドイツがあと一月程で降伏したら、ソ連が日本に仲介を申し入れて来て、それを受け容れなければ武力侵攻すると言うのではないか。そうすると  ソ連はすぐに二、三千の戦闘機を欧州から移動してく来るであろう。そうなれば、米軍がサイパンからやって来るどころの話ではない。ソ連は共産主義者の入閣を要求して来る可能性があるが、日本としては条件が不面目でさえなければ、受け要れても良い。(中略)いずれにせよ、陸海軍、特に陸軍が「もうどうにもならない」と言い出さない  限り、戦争はやめられない。
 こう語って来た木戸は、宗像に、「共産主義ト云ふガ、今日ハソレホド恐ロシイモノテハナイソ、  世界中ガ皆共産主義テハナイカ、欧州モ然リ、支那モ然リ、残ルハ米国位ノモノテハナイカ」と言った。驚いた宗像は、共産主義になったら皇室はどうなるのか、国体と皇室の擁護は国民の念願であり木戸の思いでもあるはずだ、と木戸に問い返し、このままソ連の干渉を待つのではなく米国と直接接触すべきことを主張したのである。

 昭和天皇の最側近である内大臣の木戸がこのように語る意味は、けっして小さくありません。栗原健・波多野澄雄両氏が編集した『終戦工作の記録』(講談社文庫)にも、以下のような記述があります。

 昭和十八年末の時点で有識者の眼に明らかであったのは、イタリアの無条件降伏(十八年九月)に続くドイツ敗北の危機であった。カイロ・テヘラン会談にみせた連合国の結束の誇示と対独戦略への自信はこれを裏づけていた。
 ドイツ崩壊に備えた研究は後述のように参謀本部に於ても行われるが、木戸もまた信頼する松平秘書官長とともに独自の一案を作成した(中略)。  これは、ドイツ崩壊と同時に、太平洋に臨む主要各国(日蘇支米英)が、アジア・太平洋の日本占領地域の非武装化を保障するという構想をソ連を通じて提議するというもので、構想の核心は「日蘇支」提携にあったようである。

 木戸内大臣はおそらく、太平洋戦争の戦局が日本に不利に傾いた時点から、ソ連との連携を考えていたのでしょう。
 平成25年8月12日付の産経新聞にも、「近衛上奏文」に関連した記事が掲載されました。ネット上の「ウィキペディア」にうまくまとめられているので、そこから引用します。

 なお、2013年8月12日の産経新聞の報道によると、近衛が「軍部の一部にはいかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさへ論ずるものあ  り。又延安との提携を考え居る者もありとのことなり」と警告した通り、統制派を中心とする陸軍中枢の一部(首相秘書官を務めた松谷誠大佐や参謀本部戦争指導班長の種村佐孝大佐など)は、ソ連に接近し、天皇制存続を条件に戦後、ソ連や中国共産党と同盟を結び、「天皇制と共産主義を両立した国家」の創設を目指す「米国ではなくソ連主導による終戦構想」を持っていたという。また、1945年6月に、駐スイス中国国民政府(蒋介石政権)の陸軍武官(国共合作をしていたため中  国共産党員の可能性がある)が、米国のアレン・ダレス(CIAの前身組織である戦略情報局(OSS欧州総局長)からの最高機密情報として「日本政府が共産主義者たちに降伏している」と重慶に機密電報で報告していたことが、ロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書によって判明したという。

 スイスから重慶に打たれた機密電報を、イギリスの情報機関がキャッチしていたのです。つまり、太平洋戦争末期、日本政府がソ連に接近していることは、国外でも知られていたのです。
 そして太平洋戦争も末期に近づくと、日本国民のなかにも、このきわめて困難な時期に、ソ連に接近することに希望を見出す人が少なからずいたことは、注目に値します。中澤俊輔・日本学術振興会特別研究員の『治安維持法』(中公新書)から引用します。

 また、四五年七月の警保局の報告によると、近頃は左翼分子が日ソ提携論を公然と主張するようになり、「『親ソ』に急なる余り、『国体無視』或は  『国体軽視』の傾向あるは注目すべき特徴の一なり』という。戦争末期の困窮した国内では、ソ連を介した終戦に期待が寄せられ、従来からは想像  もつかないほどソ連と共産主義を容認する状況が生まれていた。

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