「昭和史サイエンス」(115)

鈴木貫太郎内閣の発足

 小磯国昭内閣が倒れ、後継首班には枢密院議長の鈴木貫太郎が選ばれます。東条英機、小磯と陸軍出身者が続いたので、今回は海軍出身の鈴木が抜擢されることとなりました。同じく海軍出身の元首相、岡田啓介が主導した形です。鈴木内閣は昭和20年4月7日に発足し、終戦後の8月17日に退陣します。
 主要閣僚を紹介すると、外相に東郷茂徳、陸相に阿南惟幾【あなみこれちか】、海相に米内光政がそれぞれ就任し、内閣書記官長には迫水久常が就きます。迫水は、岡田啓介の娘婿です。迫水に関連して、ジャーナリストの吉見直人『終戦史』(NHK出版)から引用します。

 松谷誠が当時、革新官僚の毛利英於莬らの協力のもと「日本国家再建方策」という戦後構想も含めた戦争終結案を検討していたこと、その毛利が  かつて迫水、美濃部洋次とならんで「企画院三羽烏」といわれた人物であったこと、六月八日の時点では迫水書記官長の補佐として「基本大綱」決定に関与していたことは第二章で述べた。
 さらにいえば、迫水の意向で六月六日には毛利が総合計画局第一部長、美濃部が戦災復興部長に就任。かつての「企画院三羽烏」が終戦末期にきて揃い踏みしたわけである。
 彼ら革新官僚は、全体のために個を犠牲にするという考え方を基本にしている。たとえば開戦前、雑誌の座談会で、迫水久常は、「問題の根本は、(中略)全体のために奉仕するという全体主義的な世界観ということが、絶対に必要なんだ」と述べている。
 全体、たとえば国家のために国民が奉仕するのは当然だと革新官僚の彼らは考えていた。

 迫水書記官長はさらに、内閣総合計画局長官に企画院時代の上司であった秋永月三を推薦し、就任させました。企画院そのものは、昭和18年11月に廃止されていました。
 外相に東郷茂徳が就任したことは、前述したとおりです。太平洋戦争開戦を外相として実質的に容認した人物が、鈴木内閣においてまた外相に就任したのです。東郷、さらには企画院三羽烏といったように、日中戦争から太平洋戦争開戦までの期間、政府の戦争遂行体制に積極的に関与した人物が、鈴木内閣においても要職を占めるようになったことは、非常に重大な事実です。
 なお、鈴木内閣が発足した昭和20年4月には、アメリカ軍が沖縄を攻撃するようになり、ソ連は日本に中立条約の延長不可を通告し、中旬にはアメリカのローズヴェルト大統領が亡くなり、後任には副大統領のハリー・トルーマンが昇格し、ドイツは降伏寸前という、それはそれで激動の時期でした。

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