「昭和史サイエンス」(107)

東郷外相とハル・ノート

 東郷重徳は戦後、獄中で執筆し、自伝的回想録『時代の一面』(中公文庫)を著しています。そのなかで東郷は外相として、ハル・ノートの全文を読み終えた際の心境を語っていますので引用します。

 しかしここに自分の個人的心境を顧れば、「ハル」公文に接した際の失望した気持ちは今に忘れない。「ハル」公文接到までは全力を尽して闘いかつ活動したが、同公文接到後は働く熱を失った。(中略)戦争を避けるために眼をつむって鵜呑みにしようとしてみたが喉につかえて迚【とて】も通らなかった。

 東郷外相はその後、これはアメリカの最後通牒に等しいと天皇に上奏し、たとえば戦後首相になる吉田茂から外相辞任を勧められても拒否しました。ただ東郷は翌年9月、日本軍による占領地域の統治などを業務とする大東亜省設置に関連して、外相を辞任しています。
 ところで、近年になって、ハル・ノ―トはアメリカの最後通牒ではなかったのではという見解が、研究者の間で相次いで登場しつつあります。まずは、手嶋泰伸・福井工業高等専門学校助教の『海軍将校たちの太平洋戦争』(吉川弘文館)から引用します。

 問題は、東郷が「東亜新秩序」もしくは「大東亜共栄圏」と呼ばれるような、日本の実質的なアジア支配を当然視していたことである。そのため、門戸開放の原則に固執するアメリカとは、根本的に相容れない外交目標を、東郷は追求することになるのであった(中略)。日本のアジア支配という目標を優先するのであれば、松岡のように、それをアメリカに認めさせる環境の構築が必要であり、交渉の早期成立を重視するのであれば、近衛のように、大きな譲歩も覚悟しなければならない。ところが、東郷は、アメリカが到底認めない外交目的を、環境の整備や譲歩を考慮せずに実行しようとしたことになってしまい、有名なハル=ノートによって、彼は日本が求める国際秩序がアメリカに絶対に認めないことを悟り、交渉を断念していくのであった。
 ここで考えておかなければならないのは、東郷が「なぜ交渉を諦めたのか」ということ以上に、「なぜ交渉を諦められたのか」ということである。東郷の諦めは、対米戦を担当する海軍が武力行使を決意したからこそ初めて可能だったのであり、もし、海軍が戦争に反対していたとしたら、外交も  また譲歩を余儀なくされたはずである。海軍が対米戦を決意していたからこそ、東郷は譲歩よりも交渉の放棄を選んだのであった。つまり、対米開戦のいわばポイント・オブ・ノー・リターンは海軍が戦争を決意した一〇月三〇日であったと言え、海軍が決意したからこそ最終的に戦争は起きたのだとも言える。

 なるほど、昭和16年10月30日、嶋田繁太郎海相は海軍次官の沢本頼雄らに対し、日米開戦の決意を表明しました。嶋田海相は軍中央の情勢に疎く、海相に就任すると周囲の雰囲気に圧倒された側面があります。
 ただ、日米交渉に妥協の余地はなかったのかといえば、そうでもありません。 アメリカも暫定協定案を準備していたのですが、結局のところそれは放棄され、強硬なハル・ノートの提出となりました。暫定協定案がなぜ放棄されたのか、その経緯の詳細は未だに不明です。

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