「昭和史サイエンス」(116)

昭和20年5月

 5月7日、日本の同盟国であるドイツが連合国に無条件降伏し、ヨーロッパでの戦争は終結します。ヒトラーは前月末に、総統官邸にある地下壕で自殺していました。ドイツ降伏を受け、トルーマン大統領は日本に対しても降伏を勧告する声明を発表します。この声明で注目すべきは、日本に対し完璧な無条件降伏を求めていないことです。波多野澄雄・筑波大学名誉教授の『宰相鈴木貫太郎の決断』(岩波現代全書)から引用します。

 トルーマン(中略)も無条件降伏方針を継承していたが、ドイツ降伏に際しての大統領声明(五月八日)には、対日無条件降伏の意味についてより深いメッセージが含まれていた。その一つは、無条件降伏とは、日本を破局に導いた軍部指導者の排除を意味するが、「日本国民の抹殺や奴隷化」を意味するものではないこと、もう一つは、軍部と国民を区別し、「我々は日本陸海軍が無条件降伏のもとに武器を捨てるまで攻撃を止めることはないであろう」と述べ、軍隊の無条件降伏のみに言  及していることであった(中略)。

 このトルーマン声明は日本語に翻訳され、そのビラがアメリカ軍の飛行機によって日本上空からまかれましたので、少なからぬ国民がそのよう内容を知ることになりました。それには、前線で戦う兵士たちの「愛する家族」への復帰を呼びかける文章なども含まれ、日本政府は急いで、最後まで戦うとの意思を表明しました。
 そしてその直後の5月11日、最初の最高戦争指導会議構成員会議が開催されます。長たらしい名称ですが、それには訳があります。
 小磯国昭内閣期に、従来あった大本営政府連絡会議が廃止され、統帥と国務の一元化・政戦略の一致の確立を目指して、最高戦争指導会議が設置されました。ただこの会議においても、参加者が多いがゆえもあって、自由闊達な議論がしづらい面があり、鈴木内閣では、参加者を絞り秘密を保ちやすい形に改めたのです。東郷外相の提案でした。参加者は、首相、外相、陸相、海相、参謀総長、そして軍令部総長の6名です。
 最高戦争指導会議構成員会議は5月11日だけでなく、12日と14日にも開催されました。この会議で決定されたことは、①ソ連の対日参戦防止②ソ連の好意的態度の誘致③戦争終結の仲介依頼の3つを基本にして、対ソ交渉を開始するというものでした。裏返せば、スイスやスウェーデンを仲介とした終戦工作は、排除されたのです。
 ただ③戦争終結の仲介依頼について、講和条件をどうするかをめぐって、東郷外相と阿南陸相の意見が鋭く対立するようになり、ソ連に仲介を依頼することはしばらく見合わすことになります。
 最終的な結論は出せなかったものの、戦争終結について、政府と統帥部の最高責任者が議論を交えたことは、画期的なことでした。

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