「昭和史サイエンス」(110)

開戦以後の東条内閣

 真珠湾攻撃は、戦術的には大成功でした。アメリカ太平洋艦隊の艦船に大きな打撃を与えました。さらにその2日後の12月10日、マレー沖海戦により、イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが、日本海軍の陸上攻撃機の空襲により撃沈されました。そのうえ昭和17年2月には、イギリスの東南アジアの根拠地、シンガポール要塞を陥落させるなど、緒戦の攻防は作戦どおり順調に進みます。
 ただし、対英米開戦後の2年間、戦局は日本有利に推移するという期待は、昭和16年6月のミッドウェイ海戦に敗れたため、早くも裏切られることになりました。日本海軍が投入した空母4隻とその艦載機約290機、人的資源としては、熟練したパイロットを中心に3000人以上の人命を失う大敗北となりました。
 西太平洋ソロモン諸島にあるガダルカナル島も、大きな戦場となりました。アメリカとオーストラリアの連携を断つため、日本海軍はガダルカナル島に航空基地をつくり、その周辺の制空権維持を図りました。ところが、昭和17年8月、予想よりも早く、アメリカ軍を中心とした連合軍の反攻がはじまったのです。ガダルカナルの戦いです。
 昭和17年12月、大本営はガダルカナル島奪還が不可能であることを認め、翌年1月から撤収作戦が開始されます。ミッドウェイ海戦の敗北とともに、ガダルカナル島撤収が太平洋戦争における攻守の転換点となりました。
 そしてその後の戦局は、日本にとって悪化する一方でした。昭和19年2月には、陸海軍の統帥を一元化するため、東条首相は陸相だけでなく参謀総長も兼任し、海軍でも、嶋田繁太郎海相が軍令部総長を兼ねました。
 昭和19年6月になると、戦況の見通しはますます暗くなり、マリアナ沖海戦で大敗を喫し、サイパンの戦いでも同様であって、絶対国防圏がいとも簡単に突破されることになりました。西太平洋上の制海権・制空権を日本は完全に失うことになり、日本本土がアメリカの大型爆撃機B29の空襲圏内に入ることになってしまいました。
 こうした状況下、東条首相に対する信認が失われ、7月18日、同内閣は総辞職となりました。後任の首相には、朝鮮総督で陸軍出身の小磯国昭が選ばれました。
 東条内閣期の1943(昭和18)年1月、フランス領モロッコでアメリカ大統領ローズヴェルトとイギリス首相チャーチルが、今後の戦争指導を話し合うため会談がもたれました。いわゆるカサブランカ会談です。この会談において、ローズヴェルト大統領が戦争終結のために、枢軸国側に無条件降伏を要求することとなり、それが日本にとっても多大の困難をもたらす結果となります。

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