「昭和史サイエンス」(114)

「近衛上奏文」を真実と考える研究者

 前述したように、「近衛上奏文」は正しいと考える研究者が増えつつあります。従来は状況証拠のようなものしかなかったのですが、平成25年8月12日付の産経新聞の記事は直接証拠を示し、とりわけイギリスの公文書から発掘されたのですから、正しいと考える研究者が増えるのは自然の流れでしょう。
 産経新聞による同記事には、日本近代史研究者の半藤一利と中西輝政・京都大学名誉教授のコメントも掲載しています。両氏とも、「近衛上奏文」の内容は基本的に正しいと考えています。
 そして研究者ではありませんが、戦後になって5次にわたり政権を担当する吉田茂の見解を紹介します。実は、吉田は近衛文麿の側近であり、近衛上奏文の作成にも関与していて、戦争早期終結の工作に加わったとして、大蔵省出身の殖田俊吉【うえだしゅんきち】らとともに東京憲兵隊に逮捕されたことがあります。昭和20年4月のことです。近衛自身はさすがに、公爵ということもあって逮捕は免れました。
 原彬久【よしひさ】・東京国際大学名誉教授の『吉田茂』(岩波新書)から引用します。

 陸軍が統制派を中心に国家社会主義から更に科学的社会主義ともいうべき共産主義へと向かって「親ソ連」に染色されているという説は、当時根強く流伝【るでん】していた。吉田とともに逮捕された殖田俊吉は、これに関連してこう証言する。「陸軍には予【かね】てから政治を自分の手にしたいという考(え)が潜んでいた」こと、彼らが「ナチスにも近いが、より多くソヴェットに近い考えを持って居た」こと、そして「三月事件(昭和六年の軍部のクーデター未遂事件)前後から陸  軍は左翼と非常に密接な関係をもって居(お)った」というわけである(『日本パドリオ事件顛末』)。これについては、戦後、吉田も同じことをいっている。「現に戦争中にも軍部は大分、左翼化していた。満州国の如きは右翼の連中のやったことではなくて、左翼の思想で作られたのである」(『大磯随想』)。

 つづいて、千々和【ちじわ】泰明・防衛省防衛研究所主任研究官の『戦争はいかに終結したか』(中公新書)から引用します。

 しかしよく注意してみると、ソ連仲介策はきわめてリスクの高い選択であった。首尾よくソ連の仲介が得られたとしても、その場合日本は戦後、ソ連の影響下に置かれる危険があった。しかも一九四五年四月五日には、ソ連は日本に中立条約の不延長を通告していた(条約の効力自体は翌一九四六年四月まで有効)。ソ連にしてみれば、一時期中立関係にあったからといって、日本のために仲介で得られる以上の戦利品をあきらめなけれならない理由はどこにもなかった。
 だがソ連は仲介どころか、仮に対日参戦をしてくれば打つ手はなく、陸軍はただ満州の関東軍が持ちこたえるのを「念願」するしかなかった。だからこそ陸軍は、ソ連は参戦しないという希望にすがりついたと、歴史家の庄司潤一郎は指摘する。外交家の細谷千博【ほそやちひろ】はソ連仲介策を愚策と断じた佐藤尚武駐ソ大使の七月一二日の東郷宛電報にある「現実に遠ざかりたる幻想を防止すること本使第一の責任」の一文を引いてソ連仲介策を「幻想の外交」と呼んだ。歴史家の長谷川毅はさらに辛辣【しんらつ】にこう言っている。「モスクワの斡旋は日本の犠牲者にとって、過酷な現実から逃避する阿片【あへん】であった」。日本は、ソ連仲介策の非現実性を向き合うべきであ  った。

 吉見直人『終戦史』(NHK出版)も参考になりますので、ここで引用します。引用文にある「毛利」「松谷」「種村」「迫水」とは、それぞれ毛利英於莬、松谷誠【まつたにせい】、種村佐孝【たねむらさこう】、迫水久常のことです。

 さて、ここでは、毛利らの考えた戦争終結プランがどういった内容のものであったか、そしてそれが戦争終結プロセスにどう影響したかを検証していきたい。
 まず、この「日本国家再建方策」の作成時期だが、松谷によれば「二〇年(一九四五年)五月頃から秘かに、終戦および終戦後の国策に関し具体的考察を開始した」とのことであり、種村が迫水らと六月八日決定の「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を練り上げていった時期とほぼ重なる。
(中略)
 そして、第二章でみたとおり、種村が起案した陸軍案に迫水側が国内施策の項目を書き足したものが「基本大綱」となっていくのだが、この国内施策は彼ら革新官僚らの思想を反映させたものとみることができ、その思想は「日本国家再建方策」により濃厚に示されていると思われる。
 この「日本国家再建方策」は「表面工作」と「裏面工作」とに分かれているが、裏面工作にはこのような記述がある。
「ソ連の民族政策は寛容のものなり。(中略)ソ連は、わが国体と赤とは絶対に相容れざるものとは考えざらん」「ソ連は国防・地政学上、われを将来  親ソ国家たらしむるを希望しあるならん。(中略)東に対しては、東ソの自活自戦態勢の確立のために満州、北支を必要とするとともに、さらに海洋  への外核防衛圏として、日本を親ソ国家たらしめんと希望しあるならん。」「戦後、わが経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿るべく、こ  の点より見るも対ソ接近可能ならん」「米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織、将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得  るならん」
 明らかに親ソ国家を志向している。
 波多野澄雄も「鈴木内閣となって、政策決定に影響を与える存在として復帰していた『革新官僚』の戦後構想は、徹底抗戦体制を固めつつ最終的に  はソ連仲介によって終戦に導き、ソ連の要求を受け入れて社会主義的な政治経済施策を実施して行くことに戦後日本の活路を求めるというものであ  った」としている。

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