「昭和史サイエンス」(117)

昭和20年6月

 昭和20年6月8日、戦争終結に反対する強硬派が反撃を試みます。天皇も臨席する御前会議において、「今後採るべき戦争指導の基本大綱」が決定され、あくまで戦争を完遂するとして本土決戦計画の強化が決定されました。実際に帝国議会では、本土決戦に備えて政府に広範な権限を与える戦時緊急措置法などが成立しました。この時期、沖縄での戦いは戦局悪化の一途を辿り、本土空襲も激しさを増している状況でした。
 そうした動きのある一方で、この御前会議の直後、内大臣の木戸幸一が対策を講じます。時局収拾案を起草したのです。川田稔・名古屋大学名誉教授の『木戸幸一』(文春新書)から引用します。

 こうして、軍部主流がなお本土決戦に固執するなか、天皇の「聖断」というかたちでの戦争終結方法が、木戸や鈴木首相らによって図られることとなる。その出発点は、この「時局収拾の対策試案」にあった。木戸は国民生活の安寧なくして皇室の存続はなく、本土決戦など論外だと考えていた。
 なお、この時木戸は、「天皇陛下の御勇断」の具  体的方針として、こう考えていた。
 ソ連を仲介とする和平を、天皇の親書により実現する。その条件は、占領地よりの自主的撤兵、軍備の縮小など、「名誉ある講和」とする、と。
   
 6月9日以降のことは、長谷川毅・カルフォルニア大学教授の『暗闘上)』(中公文庫)から引用します。

 木戸は、六月九日、「試案」を天皇に説明した。天皇はこれを承認し、即刻着手せよと命じた。(中略)
 天皇は、御前会議で採択された「基本大綱」の結論と、刻々悪化する戦局とのあいだの矛盾に心を痛めていた。木戸試案の説明を受ける前の六月九日午前、天皇は満州の視察旅行から帰国した梅津美治郎参謀総長の上奏をうけた。梅津の報告は、在満支兵力が八個師団分しかなく、弾薬保有量は大会戦の一回分しかないというショッキングな内容であった。天皇は、内地の部隊は関東軍よりも  はるかに装備が劣るので、戦いにならないのではないかとという疑問を抱いた。(中略)
 しかし、六月十二日に天皇は、自分の指示によって国内の軍管区、部隊、兵器廠などを視察して帰京した長谷川清海軍大将の報告を受けた。この報告は、粗末な武器、武器の不足、兵員の訓練の不十分さを忌憚なく指摘していた。梅津上奏に加えてのこの長谷川報告は、ついに天皇に本土決戦を断念させる最初のサインとなった。天皇は「一撃和平論」を放棄する方向に傾いたのである。
   
 そして、6月22日に大きな動きが生じます。千々和泰明『戦争はいかに終結したか』(中公新書)から引用します。

 この点について転機となったのは、沖縄陥落前日の六月二二日に天皇が木戸の進言により最高戦争指導会議の構成員を招集した懇談会であった。この席で天皇は異例にも、「戦争の指導については去る八日の会議において決定したが、戦争の終結についても速やかに具体的研究を遂げ、その実現に努力することを望む」と述べて、戦争継続をうたった六月八日の御前会議の決定を事実上くつがえした。しかも、ソ連仲介策には依存はないがその実施には慎重を要するとした梅津に対して、「慎重を要するあまり時期を失することなきや」と詰め寄った。そしてここで「速やかな交渉の実施を要する」と梅津に言わせたことで、ソ連の仲介による早期戦争終結という方針が決定された。

 なおこの6月、首相経験者の広田弘毅が東郷茂徳外相の要請を受け、ソ連のマリク駐日大使と接触を重ねましたが、その実態は、ソ連による「時間稼ぎ」に利用されただけでした。

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