マガジンのカバー画像

小説 名娼明月

92
運営しているクリエイター

#小説

粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

 博多を中心としたる筑前一帯ほど、趣味多き歴史的伝説的物語の多いところはない。曰く箱崎文庫、曰く石童丸(いしどうまる)、曰く米一丸(よねいちまる)、曰く何、曰く何と、数え上げたらいくらでもある。
 しかし、およそ女郎明月の物語くらい色彩に富み変化に裕(ゆた)かに、かつ優艶なる物語は、おそらく他にあるまい。
 その備中の武家に生まれて博多柳町の女郎に終わるまでの波瀾曲折ある二十余年の生涯は、実に勇気

もっとみる
「小説 名娼明月」 第1話:不思議の蓮の花

「小説 名娼明月」 第1話:不思議の蓮の花

 むかし、博多柳町薩摩屋に、明月という女郎があった。
 この女郎、一旦世を諸行無常と悟るや、萬行寺に足繁く詣で、時の住職正海師に就き、浄土真宗弥陀本願の尊き教えを聞き、歓喜感謝の念、小さき胸に湧き溢れ、師恩に報ずる微意として、自分がかねて最も秘蔵愛護し、夢寐の間も忘れ得ざりし仏縁深き錦の帯を正海師に送った。
 そうして、廓(くるわ)の勤めの暇の朝な朝な萬行寺に参詣するのを唯一の慰めとし、もし未明の

もっとみる

「小説 名娼明月」 第7話:人ちがい

 いまや二人が行き過ぎんとするを、監物は足音忍びやかに窺(うかが)い寄り、二尺八寸の太刀抜く手も見せず、上段に振り翳し、金吾の傘(からかさ)傾けし後方(うしろ)より、全身の力を罩(こ)めて斬付くれば、血煙立ててドッカと倒れる。斬られし躯(からだ)は斜めに掛けて両断(ふたつ)となり四辺の雪を紅(あけ)に染めて花よりも紅い。驚いたのは伴の下僕である。夢中になって逃げかかりしを、監物は、おのれも讐敵(か

もっとみる
「小説 名娼明月」 第40話:主人(あるじ)の強(こわ)談判

「小説 名娼明月」 第40話:主人(あるじ)の強(こわ)談判

 宿の主人(あるじ)は足音高く入り来たり、お秋の前に膝突き合わせて坐った。顔色が変わって気色(けしき)ばんでいる。

 「自分の口から頼んでおきながら、客嫌いをして逃げるとは、何事であるぞ! 他の者ならば格別、あの人に腹立てられては、さしずめ我々夫婦の活計(くらし)に差し支える! 今から、素直にあの人の意に従えばよし、さもなければ、宿料薬代を耳を揃えて払い、今より病人もろとも宿を出て行ってもらいた

もっとみる
「小説 名娼明月」 第43話:絶体絶命

「小説 名娼明月」 第43話:絶体絶命

 太左衛門は、辞するお秋を無理に自分の真向こうに坐らして、

 「まず一杯!」

 と杯を献(さ)した。
 一人立ち、二人立ちして、四人の女中が一人もいなくなったのを、すぐと感づいたお秋は、どうかしてこの坐を立つに足るべき辞抦(じへい)を考えた。しかし、今来て今立つわけにもいかぬ。
 杯を無理に押し付けらるれば、三度に一度は受けねばならぬ。
 お秋は、飲めぬ酒を飲みし苦しさに、ほんのりと紅潮(くれ

もっとみる

「小説 名娼明月」 第44話:感謝の涙

 意外の差出口に驚いたのは太左衛門である。せっかく絶体絶命の瀬戸際まで漕ぎつけたところで、突然思わぬ邪魔が入ったのであるから腹を立てた。

 「どこのお方かは知らねど、こちらの話に要らざるお世話、話の済むまで暫くご遠慮くだされたし!」

 と睨みつくるを、その男は敢えて口やかましく争おうとはせず、恭(うやうや)しく太左衛門の前に頭を下げた。

 「お咎めの次第、もっともながら、始終のご様子は残らず

もっとみる

「小説 名娼明月」 第45話:一封の手紙

 急場を思いがけなき人に救われて、蘇生の思いをしたるお秋は、感激の涙を両眼に湛えながら、母の室(へや)に帰った。そうして事の始終を詳(つまび)らかに話すと、阿津満(あづま)も一方(ひとかた)ならず喜んだ。

 「いずれ明朝お目にかかって、ゆっくりお礼を申し述ぶることとしょう。その際、その方がどこの何というお方であるかは判るであろう」

 と、その夜は枕に就き、翌朝朝飯を終わるやいなや、すぐにお秋は

もっとみる
「小説 名娼明月」 第46話:零落の底

「小説 名娼明月」 第46話:零落の底

 阿津満(あづま)母娘が今度引越した裏町の家は、六畳の一間に二畳の板敷が付いている。門口から台所まで、一目に見透さるる棟割である。
 亀屋から貸してくれた世帯の道具いろいろを、それぞれの所に並べ、綺麗に払いて、お秋はまず母の床を敷いた。南窓を頭に母を臥(ね)さして、母の枕元に坐れば、近所の色黒き男や、人相の悪い女房どもが、移り替り門口から母娘を窺(うかが)いに来る。自分たちの仲間としては、余りに品

もっとみる
「小説 名娼明月」 第47話:門演(かどづけ)の身

「小説 名娼明月」 第47話:門演(かどづけ)の身

 長屋の盲女(めくらおんな)から聞いたる三味線門演(かどづけ)のことを、その夜お秋は種々思案してみた。

 「かくまで窮迫した身で、どうして贅沢が云えよう? 飢えたる者は食を撰ぶの隙はない。幸い自分は三味線ならば一通りは弾ける。三味線の門演でも仕事には相違ない。思い切って門演を行(や)ってみよう!」

と、雄々しくも心を極めたが、

「このことが母上に判っては許されまい。よし許されたとしても、却

もっとみる
「小説 名娼明月」 第48話:病勢進む

「小説 名娼明月」 第48話:病勢進む

 お秋の美容と美音とは、たちまち小倉の城下の大評判となった。
 もうあの美人三味線が来そうなものである、と日暮るれば、お秋の来るのを待ちかねる人が、そこここにあった。従って収入(みいり)も殖えて、母の病気を養い、己の口を養うのに充分であった。
 そうして、このことの評判は、長屋中に伝わらずにはおかなかった。近所のおかみさんや娘さん連は皆、お秋の身を羨んだ。
 ある晩のこと、お秋はある家で、尠(すく

もっとみる
「小説 名娼明月」 第49話:阿津満(あづま)の死

「小説 名娼明月」 第49話:阿津満(あづま)の死

 阿津満(あづま)の病勢は、いよいよ募った。十二月五日は雪を以って明けた。真っ白く明け放れた空には、なお小歇(こやみ)なしに綿雪が降る。雪を踏んで寒そうに仕事に出かける長屋の人もいる。
 阿津満は、目をつぶったと思えば開き、開いたと思えばつぶりして、窓の向こうに見える雪を力なくながめていた。
 頭は惘然(ぼんやり)となってくる。そうして眼界にある総ての物が影薄く眼の底に映ってくる。それでいて古郷を

もっとみる
「小説 名娼明月」 第50話:またも巡礼の旅

「小説 名娼明月」 第50話:またも巡礼の旅

 広き天地の間にただ一人取り残されしお秋は、母を失いし嘆きの涙の裡(うち)から雄々しくも奮い立った。
 今日を限りと思えば、お秋は朝から母の墓に詣でた。草花手向けて墓前に叩頭(ぬかづ)けば、さまざまの思いが一時に胸に罩(こ)み上げてきて、涙は墓前の赤い土を濡らした。さすがに勇ましい決心も、母の墓前にあっては、一個の弱い女である。悲しい思い出の数々、母についての記憶のさまざまが、一緒に雲のように湧い

もっとみる
「小説 名娼明月」 第51話:禅寺の奇遇

「小説 名娼明月」 第51話:禅寺の奇遇

 今日は陽春三月の下旬である。龍造寺城下外れの、ある禅寺には、桃の花が盛りで、朝からたくさんの見物人が続いた。
 敵(かたき)の詮議に疲れた金吾は、この桃を見る気になって、昼過ぎより出かけた。なるほど、花は真っ盛りである。花間を逍遥する男女、草の上に坐して花を眺むる老若等、花に酔って一帯がいかにも陽気である。
 金吾が一渡り花を眺めて寺近く来ると、寺の縁先に坐して花見の群衆をおもしろそうに眺めいる

もっとみる
「小説 名娼明月」 第52話:博多に来たる

「小説 名娼明月」 第52話:博多に来たる

 金吾は禅寺に滞在して、ひそかに参詣の家老や供の者に目を付けること三月、監物に似寄った者の影も見えぬに失望していると、ある日、龍造寺家の家老の一人が詣って来た。和尚とは昵懇(じっこん)の間柄である。
 和尚は例によって菓子など薦めて待遇(もてな)しながら、金吾のことを打ち明け、矢倉監物のことを尋ねてみた。訊かれて家老は、先ごろ、矢島監物太郎と名乗る中国浪人が仕えを求めて、この城下に来たことを思い出

もっとみる