多様とは比較不可能な状態

私のバイブル本、小坂井敏晶先生の著書「答えのない世界を生きる」の中にこんな一文があります。

「多様性の維持とは比較不可能な価値群が共存する状態を意味する」  

ちなみに小坂井先生の「答えのない世界を生きる」は、2018年5月頃、地元の図書館で目的もなくぶらついていた際にそのタイトルが視界に入り、自分の中でビビッと稲妻が落ちた気がして、一ページ読むや否や、即アマゾンで購入して一気読みした本です。

2018年3月、私は大学2年生になる前の春休みに初海外でケニアに行きました。帰国後に読んだ「答えのない世界を生きる」の中で見つけた上記の一文が、私のケニアでの実体験と結びつき、何となく自分の中で言語化できそうでできていなかった自分の経験に基づく主張をうまく整理するのに役立ってくれました。

この一文のおかげで、よりクリアに、ケニアで感じた美的価値観への考察を通して「多様とは比較不可能な状態のことである」と自分の中で結論を出すことができました。この結論が当時の私にとってはかなり腑に落ちたので、他のブログサイトで以前に、実体験からその結論にまでたどり着いた過程を投稿しました。この記事はその投稿の転載です。去年に書いたもので、今よりさらに文章力がなく読みにくいと思いますが、ご了承ください。

※ぽよの結論、小坂井先生の一文とほぼ一緒やんという指摘をされるとぐうの音も出ませんが、最終着地点は同じでも、自分の中で実体験をもとにその着地点にまで到達できたことが19歳の私にとってはかなり大きな出来事であり、最終メッセージ以上にその過程を共有することが本稿でのメインどころなので、お手柔らかにお願いします。初めて海外に行った19歳の小娘が自分なりにない頭で必死に考えたことにすぎないので、構え姿勢ではなくラフに読んでいただけると幸いです。

※この先の文章を読み進めるにあたって「人の外見をジャッジするなんて不快だ」「日本はハイコンテクスト社会なのか」等、数々の疑問や意見が出てくると思いますが、あくまでの趣旨は”多様性”についてなので、趣旨とズレる論点はできるだけ無視して読み進めていただきたいです。宜しくお願いします。

ではどうぞ!

ケニアから帰国したのちふと思ったことがある

美的価値観についてだ

誰かを指しながら「この中でケニア人女性、ソマリア人女性、日本人女性誰が一番美しい?」と聞かれたら私はおそらく答えられないだろう。

他の日本人や、ケニア人、ソマリア人に実験して、答えられる人がいたとしても回答はまちまちだろう。(勿論、被判断側の文化や個人に基づく好みの問題もあるが)(そもそも人の外見をジャッジしようというマインド自体が、ルッキズムに完全に侵されていてくそブスなのは承知している)

しかし少し日本での生活を思い出してみよう。

日本の学校で、このクラスで一番誰が万人ウケするかわいい顔をしているかなんて、今まで割と容易に判断できたし、私の思うクラスで見た目がかわいい子は、他のクラスメイトからもかわいいと言われていた。

勿論好みの個人差はあれど、日本国民の大半は石原さとみを「かわいい」と認識している。一方、私の外見に肯定的評価を下す人なんて1億にいるうちの5人以下だろう。

なぜ大半の人が同じ(似たような)評価を下すのだろうか

それは「共通の尺度」があるからではないだろうか

ケニア人、ソマリア人、日本人

骨格、肌の色、髪の毛、服装、立ち振る舞い、何をもって美しいとするか、何もかも異なる。

共通項がなさすぎて比べようがないのだ。逆に言えば、共通項があればあるほど比較しやすいということだ

モンゴロイド系の顔の人が多い日本は、似ているからこそ比較しやすく、ハイコンテクスト社会で、共通の美的価値観を共有しやすいからこそ優劣もつきやすいのである。

つまり、私の中に、この三者(ジャッジされる側)を比較する基準がない(=誰が一番美しいか聞かれても答えられない)だけでなく、日本人の私と、ケニア人の誰かと、ソマリ人の誰か、この三者(ジャッジする側)間にも共通の価値尺度が存在していなかった(=回答にばらつきが出る)

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しかし多人種が混ざり合って住んでるからと言ってこのような状態は発生するのだろうか

これは私がケニアで単なる訪問者でしかなかったから起こったことではないだろうか

以前一度、アジア系アメリカ人男性の多くは「セルフヘイト」に悩まされていると聞いたことがある。これが真なのか調べていないままに、その原因の一つを外見と結び付けて私の考察を勝手に進めるとすると、

アメリカ社会でメディアなどに出てくる価値基準の上位にいる男性の大半は白人であろう

つまり多人種が住んでいるにもかかわらず、一定の価値基準が存在してしまっている状態だ

多数の評価を得られる外見になろうと努力するにも、そもそもの身体的な違いゆえに、世間一般の理想形態と自分の外見との間に大きなギャップがある。理想形態に近づくことがより難しい状況だ。

他人の評価なしには、自分で満足することは容易ではない。そんな状況で自分のことを好きになれるだろうか。(論理飛躍が多い上に、私はアメリカに行ったことがなければリサーチしたこともないので、後半の主張は私の空想だと解釈してほしい)

まとめ

ジャッジ側の日本人、ケニア人、ソマリ人。この三者間に共通の尺度が存在していないだけでなく、そもそも、日本人女性、ケニア人女性、ソマリ人女性の外見をジャッジする尺度も私の中に存在していなかった。

多様でない状態とは一つの比較基準しか存在していない状態で、多様な状態とは様々な尺度が存在している状態を指すのではないかと考える人もいるかもしれないが、多様な状態とは比較基準が存在していない状態なのかもしれないとこの経験を通して私は思う

これを裏付ける他の関連エピソードもあるが、それはまたどこかで機会があれば。

多様とはどういうことなのかを定義づけること自体が、多様とは逆の方向に向いているのかもしれないが、自分の思う「多様」くらいは言語化しておいてもいいのかなぁなんて思って少し私の主張を言葉でまとめてみた。

さいごに

「魚の目に水見えず」といった言葉があるように、私には当たり前すぎて見えていないものが数えきれないほどある。

日本で形成された私の思考枠、常識やべき論のような抽象的なもの、私にとっての当たり前、こういった目に見えないものを一つ一つ認識していくことが、一生透明になることはないであろう色眼鏡を少しずつ薄くしていくことに繋がると私は思っている

~番外編~

小坂井先生の本から影響を受けて、異文化での生活による思考枠変容のイメージを簡単なイラストにしてみました。

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私なんぞにご支援いただける方がこの地球上におりましたら、もう控えめに言ってあげみざわエクスプローションします。