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透影の紅【第1話】


あらすじ

 日本有数の占い師集団、カレイドスコープの代表が殺された。
 容疑者は代表の妻である日々子という女。彼女は夫が所持していた一冊の黒い本を持ち出し、姿を消した。
 日々子の起こしたニュースが世間を賑わせている中。市立河口高校に通う白鳥悠真は、学校からの帰宅途中で正体不明の女に「お前の本を渡せ」と襲われ、八日間で死に至る呪いを受けてしまう。パニックに陥った悠真の助けとなったのが、彼の幼馴染である紅莉だった。
 彼女は占いやオカルトに詳しく、悠真を襲った犯人に心当たりがあるという。そして呪いを解除するために必要な、六冊の『悪魔の愛読書』と呼ばれる本を集めることになるのだが――。

第1話

 恍惚の表情を浮かべた槌金日々子(つちがねひびこ)は、一糸纏わぬ姿で男に跨っていた。絹のように滑らかな白肌に玉の汗を纏わせながら、今まさに大きな絶頂の瞬間を迎えた。
 キスをする距離でようやく相手の顔が分かる程度の、薄暗い照明。人の本性をさらけ出すサンダルウッドのアロマと、男女が交わり合う際の独特の匂いが充満する部屋で、日々子は夫である啓介の生を貪ろうとしていた。
 決して逃すまいと、柔らかな太腿を彼の下半身にヘビのように巻き付かせ、昇天させようと必死で身体を動かしている。
 この夫婦が居るのは、カレイドスコープという会員制のバーである。
 酒を提供する関係でバーと名乗ってはいるが、この店のメインは“占い”である。そのためやや歪な間取りで、フロアの殆どが密閉された個室だった。
 現在の時刻は、火曜日の午後一時を過ぎたあたり。ここの客は大抵、夕方から夜にかけてやって来る。とは言っても、隣りの部屋では他の占い師が真面目に仕事をしている時間帯だ。
 どうして日々子たち夫婦は白昼堂々と、こんな行為に耽ることができるのか?
 それはこのバーが入っているビル全体が、啓介の所有物だからである。
 日本古来から続く、占い師の集団。千の未来を見通すカレイドスコープの代表。政治家や企業経営者が足繁く通う団体の最上位に、啓介が君臨しているのだ。そんな彼だからこそ、ビルで妻と過ごすぐらいでは誰にも文句を言われない。
 身長が一八〇センチを大きく超える体躯では、啓介の足はソファーに収まりきらず、膝から下が出ている。
 ソファーの隣りにあるローデスクの上には、先ほどまで啓介が飲んでいたであろう、ウイスキーのセットが置いてあった。日々子の動きに合わせるように、グラスの中にある琥珀色が波立つ。
 その隣りには一冊の黒い本があった。
「ああっ、あっ……あっ……」
「うぐっ……うっ、あっ。ひ、びこ……」
「はやくっ、はやくぅ……」
 日々子の懇願の天に通じたのか、遂にその瞬間がやってきた。彼女の体力が尽きるよりも先に、啓介の限界が訪れた。
 彼はくぐもった声を上げ、そこに追い打ちとばかりに日々子が口を重ねる。舌が絡み合う中、啓介の身体が一度だけビクンと跳ね……そして彼の身体は、二度と動くことは無かった。
「はぁ、はぁ……は、ははっ。やった、ようやく……」
 呼吸も忘れて夢中になっていた日々子は、少し名残惜しそうに啓介の首から手を放す。
 もっと楽に済ませたかったが、この体格差だけはどうにもならなかった。手が痺れて力が入らない。軽い体重をこれでもかと掛け、全力で締め上げたのだからそれも当然だ。どれだけ力を籠めれば人が死ぬかなんて、何を調べても載っていないのだから。
「やっと、私は自由に……!」
 そもそも、まともな準備を整える余裕なんてなかった。
 日頃から啓介は日々子を縛りたがった。職場であり住居でもあるこのビルに軟禁し、買い物にすら行かせなかった。
 娘には学校や遊びに行かせる、良い父親面をしていたのに。どうして私だけ。日々子はこの部屋で、いつもそう思いながら過ごしていた。
 夫の監視の目を盗んで彼女ができたのは、啓介の飲む酒に薬を盛って自由を奪うことぐらいだった。何度もシミュレーションをしていたとはいえ、殺人なんて生まれて初めてだ。まさに人生を掛けた一大イベント。失敗すれば、啓介からどんな仕打ちを受けるかも分からない。
 だけど、すべてはこの男の息の根を止めるために。結果、これまでの苦労や恐怖はこうして報われた。果てのない達成感が、彼女の脳をこれでもかと甘く痺れさせていた。
 ようやく現実へと帰ってきた彼女は未だ自分の下にいる、夫だったモノを見下ろした。首を絞められたことで、啓介の顔は行き場を失くした血液が水風船のように溜まり、赤黒く変色していた。そんな状態でもなお、彼の双眸は自身を殺した女を映し込んでいた。
「……なに、その目は」
 その言葉は啓介に対してでは無かった。すでに彼女にとって、夫の存在はどうでも良かった。代わりに瞳の中にいる女が気に入らない。女は歯を剥き出しにして嗤っていた。それが何となく日々子は腹立たしかった。
 それでも、女の笑顔は変わらなかった。仕方がないので、日々子は次の行動に移すことにした。
「これで、やっとあの人を迎えに行ける。あの子もきっと、本当のパパに会いたがっているはずだわ。ふふっ。準備ができたら、ママと一緒に会いに行こうね。ママ、今度は失敗しないように頑張るから……」
 ふわりとソファから降りると、机の上にあった本を取った。しばし愛おしそうに眺めた後、兎の刺繍がされたトートバッグの中へ大事そうにしまった。
 そのまま部屋の扉まで歩き、ドアノブに手を掛けたところで立ち止まる。
「あ、いけない。忘れてた」
 日々子は何かを思い出したかのように、部屋の中をくるりと振り返った。
 百キロ近い生肉は、筋肉が弛緩したせいで汚物を垂れ流し、異臭を漂わせ始めていた。日々子は臭いを気にした様子もなく、それにスタスタと歩み寄ると、トートバッグから錆だらけの裁ち切り鋏を取り出した。
「ねぇ貴方。神様は見ている、悪い子には天罰が下るって、いつも言ってたわよねぇ?」
 満面の笑みを浮かべながら、啓介のだらしなく垂れさがった性器を掴む。
「悪い子には、ちゃあんとお仕置きをしなくっちゃ」
 指で少し上に引き伸ばしてから、彼女は右手に持ったハサミで、ひと思いにバツンと切断した。言いつけ通り、きっちりとお仕置きを終えた日々子は、血が飛び散った顔をうっとりとさせた。
「でも……世の中には悪い子はたくさん……」
 日々子は鋏を持ったまま、部屋の外へふらりと歩いていく。
「あぁ、神様……私を見てくれていますか? ……おぉ、ハレルヤ」
 それは神を讃える歌だった。決して、死者を悼むレクイエムではない。
 ――ハレルヤ。
 彼女は己の神であり、愛する存在のためにその歌を口ずさむ。

 その日の夕方。ニュース番組では会員制バー、カレイドスコープにて有名占い師を含めた、十数人規模の大量殺人事件が起こったと報じられた。
『どうして彼女は夫である啓介を殺そうと思ったのか?』
 ワイドショーのコメンテーターや自称専門家たちは、日々子の犯行の動機をあれこれと推察した。夫婦仲のこじれだとか、啓介の浮気、DV。次第に明らかになっていく事実に妄想を織り交ぜながら、好き勝手に論じた。
 実際に家宅捜索をした際には、さまざまな証拠が見つかったし、日々子に同情する者まで現れた。女性に対するハラスメントが問題になる度にこの事件が浮上するほど、この事件は国民にとってショッキングだった。
 だが、もし日々子本人に『なぜ殺したのか』と問うたのであれば、恐らく彼女はこう答えただろう。
 私はただ、愛する人と再会するためにやりました――と。

第2話以降のリンク

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