透影の紅【最終話】

 
「起きて、悠真くん……」
 誰かの声に導かれるように、悠真はゆっくりと覚醒していく。
 んん、と何回か身じろぎをした。目蓋がやたらと重たく感じる。というより全身が物凄く怠い。それに……なんだだろう。どこかで嗅いだことのある甘酸っぱい匂いが、ツンと鼻を刺した。
「まぶしい……」
 太陽の光が差し込んでいるのか、眩しい。視界がぼんやりとしている。
 逆光になっているが、誰かが自分を見下ろしているようなシルエットが目に入った。
 そうだ。前にも似たようなことがあった。あれはたしか、公園で――。
「あか、り……?」
 そうだ、間違いない。あの時のように、紅莉が俺を起こしてくれたんだ……。
 まばたきを何度か繰り返り返しているうちに、悠真はようやく意識がハッキリとしてきた。
 俺は何で寝ているんだ? 胸を刺された紅莉を助けようとして、俺は化け物女を……それから……それから、どうした!?
「紅莉っ!?」
 上体を起き上がらせる。
 俺は気を失っていたのか? いや、誰かが俺達を助けてくれたんだ。だって目の前にいるのは――!
 彼女の無事を確かめようと、目を良く凝らす。だが、そこに居たのは――紅莉ではなかった。
「女神の……像?」
 頭を片手で押さえながら、辺りを見回してみる。
 どうやらここは教会の礼拝堂のようだ。自分は祭壇の前に寝かされている。
 そして紅莉だと思っていたのは、祭壇にある女神の像だった。面影は似ているが、彼女ではない。
「あれは……マルコ? どうしてここに……」
 マルコは長椅子に足を組んで座り、ニコニコとした表情でこちらを眺めていた。
「どうしてって、まだ寝ぼけているのかい悠真クン。ここはボクの教会だよ?」
「いや、それは……俺は、いったい……?」
「君は寝ていたんだ。ボクがその間の世話をしていたんだよ」
「寝ていた!? って、紅莉はどうなったんだ!? アイツ、胸を刺されて――」
「残念だけど、ボクが見付けた時には紅莉はもう亡くなっていたよ」
 マルコは本当につらそうな表情でそう告げた。だが悠真はその言葉の意味を理解できなかった。
「は……? し、死んだ……?」
「満足そうな、安らかな死に顔だったよ。まったく、自分勝手で酷いよね~」
 ――死んだ。紅莉が、死んだ……? 俺が見た時には、まだ生きていたはずだ。病院に連れて行けば助かったはずだ。 それを、この悪魔は『死んだ』だって?
「おい、お前は何を呑気に言っているんだよ! そ、そうだ。神の眷属なら、どうにかできるだろ!? 紅莉を生き返らせてくれよ!」
「残念ながら、死んだ魂を元に戻すことはできないんだ。時を巻き戻せないのと同じくね」
「そんな馬鹿なことがあってたまるか! お前だって紅莉が好きだったんだろ! どうして助けないんだよ!」
「――紅莉はそんなことを望んじゃいない」
 そんな馬鹿な。紅莉は俺と一緒に居たいと言っていた。生きて、これからもっともっと楽しいことを分かち合うはずだったのに!
「気付いていないようだから、代わりにボクが教えてあげよう。こうなることは紅莉が望んだことなんだ。最初から、ね」
「はぁ? 最初からって、どういうことだマルコ!」
 なんなんだ。紅莉が望んだって。
 そんなわけがあるわけがない。この数日間、俺と一緒に生き延びるために必死で抗って来たじゃないか。
「キミは覚えているかい? 紅莉がここでキミの運勢をタロットで占った時のことを」
「それが何だ」
「紅莉のタロットは外れない。ねぇ、彼女が占ったことで外れたことがあったかい?」
「それは……」
 たしかにカズオについて占った時も当たっていた。だがあの時、紅莉は俺の運勢をこう言っていたはずだ。
「あの時、紅莉はこの三枚のカードをキミに見せた」
 マルコは胸ポケットから三枚のカードを取り出す。そして一枚一枚、悠真の前に屈んで並べ始めた。
「過去がソードの六。現在が真ん中が吊るされた男。未来がワンドの三」
 カードの呼び方は分からない。でも、書いてある絵には見覚えがあった。
 紅莉が持っていたカードと同じだ。まだ数日前のことなのに、懐かしい思いで胸が締め付けられた。呼吸が苦しい。
「過去は紅莉の支援を受けられることを示唆していた」
 マルコが指を差しながら説明をする。
『まずは過去ね。これは困難に向かう時、誰かの援助を受けられるって示されてるわ』
 そうだ。紅莉もそう言っていた。
『そして現在。悠真君は心配していたけれど、これはどちらかと言えば良い兆候よ』
『このカードは報われる努力を意味しているの。だから今の行動を信じて、このまま突き進むべきって事かな』
『うんうん。三枚目は新たなる旅立ち。先はまだ見えずとも、しっかりと大地に立って進んでいける。そんなカードだよ』
 どれも紅莉は悠真にとって良い事を言っていたはずなのだ。それがどうしてこんなことに。報われる努力? 新たな旅立ち?
 ふざけるな。紅莉が死んだ未来が良い旅立ちになるわけがない。
「では、教えてあげよう。タロットには正位置と逆位置がある。ほとんどの場合、逆位置ではその意味は逆転する」
「は? 正位置……?」
「キミは自分から見た方が正位置だと思っていたようだけど、それは違うんだよ。占い師から見ての向きが正解なんだ。だから、ね……」
 マルコは悠真にも分かるよう、上下の向きを逆にしていく。
「吊るされた男の逆位置。報われない努力。ワンドの3、その逆位置は『見えない未来』『トラウマ』『失敗』……紅莉は全て、真逆のことを言っていたんだよ」
 ――逆?
「う、うそだ……」
「こうみえてボクは嘘が嫌いなんだよ。だから、ボクは最近の紅莉は好きじゃなかった。純粋だったあの子が、キミの前では嘘ばかり……ぜんぶ、キミのせいだ」
「俺が……」
「そう。ボクは紅莉を愛していた。なのに、紅莉はボクじゃなくって、キミを選んだんだ。憎いったらありゃしないね」
 真顔でそう言うマルコは真ん中のカードを拾い、指でビリビリと破いていく。
「星奈とか言ったっけ? その子から、キミを奪いたかったんだよ。紅莉は」
 紅莉が星奈を……?
「そんな、俺は、でも紅莉を愛していたのに……」
「あははは! でも彼女が居たんだろう? まったく、笑っちゃうよね。でも、紅莉は昔からずっと考えていたんだ。悠真クンを手に入れるにはどうすれば良いかって。その為に周囲の人間をみーんな利用したんだ」
 紅莉が、俺と星奈を別れさせるために……?
「そんなこと……どうしてそこまでして……」
「日々子がボクを神と崇め、ボクを手に入れようとしたように。紅莉にとっての神は悠真クン、キミだった。自分を絶望から救ってくれた人と、たとえ死んでも離れたくない。――だからあの子は、思い付いたんだ。本の中でなら、魂はずっと共にいれるということを」
 長椅子の上にあった黒い本……あの日々子が持っていた呪術の本を取り、マルコは俺の前でヒラヒラと見せつけた。
「本を集めればボクの力は戻り、永遠に本の世界は守られる。紅莉が目指したのは、本の中でキミと暮らすことだったんだ」
「そんな……ならどうして俺はこの手で殺してまで……」
 思い出したくもない、肉が抉れていく感触が手に戻る。ガタガタと震えてきた。
「いくら他人を護るためとはいえ、人を殺めた。純粋だったキミが罪を犯す過程は……ふふっ。実に見ものだったよ」
「それじゃあ……俺の、呪いは……」
「術者が死んでも消えることはない。解くには本が必要だったから。そしてその本は……ふふふ。この通り、ボクの手の中にある」
「よ、寄越せよっ!」
 興奮し過ぎたのか、今度は鼻から血が流れてきた。鼻が詰まって、さっきから漂っていた臭いにおいが分からなくなったから丁度いい。ラブホテルで出逢った時のカズオのように、甘酸っぱい臭いがしていたから。
 その代わり、体がかゆい。かゆいかゆいかゆい……。
「嫌だよ。これはボクのものだ。どちらにせよ、もう時間切れだよ」
「え――」
 マルコは紅莉の持っていたコンパクトミラーを取り出し、悠真に差し出す。
 鏡に映っていた彼の顔は真っ赤で……。
「さようなら悠真クン。本の中で紅莉と末永くお幸せにね。ふふっ、ふふふふ。あははは!」
 悠真の意識が遠くなっていく中、悪魔のような笑い声がいつまでも教会に木霊していた。

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