透影の紅【第23話】

 教会の入り口に立っていたのは、全身を煤だらけにした長身の女だった。
 かつての可憐な乙女だった姿はどこにもない。長い髪は炎に巻かれてしまったのかボロボロで、ところどころ短くなってしまっていた。
「本をぉお……寄越せぇええ……」
 真っ赤に充血した目を剥き出しにして、唸り声を上げている。知性のようなものはまるで感じられない。
 そして左手には悠真たちも知っている、あるモノが掴まれていた。
「そんな……嘘だ……」
「駄目っ、悠真君! 近付いたら殺されちゃうっ!」
 駆け寄りそうになった悠真を、隣りにいた紅莉が必死に引き留める。
 悠真にとって、それは信じがたく……とにかく違って欲しいという願いで、頭がいっぱいだった。
「どうして……星奈っ!」
 星奈と呼ばれたソレは、虚ろな目で悠真を見つめていた。
 ただし、頭だけの状態で。
 雑に切り離されたのか、首はグチャグチャに潰され、切断面からは赤黒い血肉がボトボトと零れている。もちろん、そんな状態で生きているはずもない。日々子に髪を掴まれた状態で、鞄のようにブラブラと揺れていた。
「ふっ、ふふっ……せ、なぁ?」
「ひっ!?」
 悠真が叫んだ星奈という言葉に、日々子が反応した。
 グイッと自分の目線まで星奈の頭部を持ち上げ、悠真と星奈の間で視線を往復させる。日々子の血走った瞳に驚いた悠真は、その場で尻もちをついてしまった。
「わたしの、娘を知ってるのぉ?」
「星奈が娘?」
 ――そんな馬鹿な。いや、待て。そういえば星奈の母親を見たことがない。
 家に行くと、出迎えてくれたのはいつも父親の方だった。コイツが母親だったから、会わせたくなかったってことなのか?
「せっ、せせなっ! あの御方のっ私のォおおっ……」
 ……だとしてもだ。娘の生首をどうして平気な顔をして持っていられるのか。
 この女は他人だけじゃなく、実の娘まで手に掛けたのか? それも本のため?
 なぜ、そこまでして。なぜ、なぜ。
「どうして……星奈……」
 冷たく接され、別れたつもりになっていたとはいえ、嫌いになったわけじゃない。そもそも星奈は自分から好きになって、告白までした相手だ。
 いつもケラケラと無邪気な笑顔に溢れていたのに。今では恐怖と絶望で歪まされている。
「悠真君、逃げよう……」
「はあっ!? 今さら、どこにだよ!」
 紅莉に腕を引っ張られるが、身体が動かない。初めて見る本物の死体。紛れもない“死”を見せつけられたのだ。悠真がこれまで誤魔化し続けていた恐怖心が、遂に爆発してしまった。
 全身がガタガタと震え、自然に涙がボロボロと出てきた。心臓が胸から飛び出しそうなほど高鳴っていて、呼吸も苦しい。こんな状況で、思考なんてまとまるわけがない。何か言おうとしても、ヒュウヒュウと息が口から抜けていく。酸素を取り込むだけで精一杯だ。助けて、たすけて。
「……悠真君。私を信じて」
「えっ?」
 もうどうしようもなくなって、全てを諦めかけた時。
 悠真の口が唐突に塞がれた。
 なぜ急にこのタイミングでキスをされたのかは分からない。紅莉の顔が離れた後も、悠真は唖然としてしまった。
「大好きだよ、悠真君。私、待っているからね。悠真君なら、きっと……」
「紅莉、何をっ――!」
 悠真が手を伸ばして紅莉を止めようとするが、彼女は日々子の前に立ちはだかった。
「貴方が欲しいのはこの本でしょう!?」
 紅莉の手に持っているのは、先ほど汐音から託された手相の本。現状、悠真たちに残されている中で、唯一の切り札となり得るモノだ。
「寄越せぇえ……!」
「だったらこっちに来なさいっ!」
 勇気を絞り出すように大声をあげ、紅莉は教会の二階へ続く階段に向かって走り出す。本という餌を見せつけられた日々子も、星奈の首を放り出して紅莉の後を追い始めた。
 木製の階段が壊れてしまいそうなほどの大きな音を立てながら、女二人は駆け上っていく。呆気に取られていた悠真も、ようやく理解が追いついた。振るえる手と足を支えにしながら、這うように起き上がる。
 急がねば、彼女まで殺されてしまう。それは、嫌だ。
 何ができるかとか、あの女を止められる術があるとか、そういうのは全く考えられなかった。
 行かなければ。行動を始めるにはそれで充分だった。
「紅莉――!」
 二度三度、足がつんのめりそうになりながらも階段を上っていく。キッチンには居ない。廊下の先にある部屋のドアが開いている。
 ガシャン、と何かが割れる音。急いでその部屋に向かう。三日前に悠真が泊まった寝室だ。ベッドの上にガラスが散乱している。
 二人とも、部屋には居ない。ベランダへ繋がる窓を割って、外へ出たようだ。そこにも紅莉の姿はなく、日々子は空を見上げて何かを睨んでいるところだった。
 紅莉はまだ捕まっていない。だが、何処へ?
 彼女の無事を確かめるべく、悠真もベランダへ。日々子が窓の脇にあった梯子に足を掛けようとしていた。紅莉は更に上に逃げたらしい。
 ――急がないと。
 悠真がベランダに出ようとした時、窓枠に残っているガラスに身体が引っ掛かった。
 腕に赤い筋が走る。じんわりと熱を感じたが、小さな傷を気にしている場合じゃない。
 梯子は細い鉄製で頼りなかったが、気にせず登り始めた。日々子はすでに屋根の上に立っているのだ。急がなければ。
 悠真が二人に遅れて梯子を上り切ると、二人はそこに居た。
 もうここには、逃げ場がない。屋根は緩やかな傾斜になっているとはいえ、ビルの三階ほどの高さがある。落ちたらひとたまりもないだろう。特に今日は風が強く、立っているのがやっとだった。
 紅莉は屋根の上にある十字架を背に立っていた。手には悪魔の愛読書がある。
 高い場所が苦手な彼女は、足を震わせながらも気丈な態度で日々子を睨みつけていた。
 一方の日々子はフラフラとした足取りで、紅莉に近寄ろうとしている。
「ん~ふふふ♪」
 日々子が何かを歌っている。
 あれは……そう、音楽の授業で聞いたことのあるメロディだ。なぜそれを今歌っているのかは分からないが、おちょくられているようで腹が立った。
「おいっ、こっちだ!」
 そう叫んでみるが、日々子はこちらに見向きもしない。ハレルヤを口ずさみながら、どんどん前に足を進めている。
 早く止めないと。アイツは紅莉を殺す気だ。
「だめっ、悠真君! こっちに来ないで!」
 もはや、身体を張って止めるしかない。危険を顧みず、悠真は駆け出した。
 紅莉を失ってたまるか。頼む、間に合ってくれ。
 だが悠真の想いも、伸ばした手も届かない。時が止められるとしたら、悠真は間違いなく実行していただろう。もちろん、そんなことは到底不可能だった。
 日々子が黒い尖った何かを、勝鬨を上げるかの如く天へ振り上げているのが見えた。
「悠真君。また、ね……」
 彼女は迫りくる脅威を避けるよりも、愛する悠真にその言葉を届けることを選択した。
 そして近付いてくる日々子に、紅莉は自ら飛び込んだ。
「――あかりぃいいっ!」
 二人の姿が視界から消えた。悠真だけがひとり、屋根にぽつんと立っている。
 悠真は下を確認することもせず、すぐに来た道を引き返した。梯子を駆け下り、廊下で転び、階段を数段飛び越して教会の外へ飛び出した。
 ――居た。
 二人とも、石畳の上に重なり合うようにして倒れている。
 まずい。三階程度の高さだったとはいえ、落ちたのは硬い地面。頼む、どうかお願いだから助かっていてくれ。
「クソッ、邪魔だ!」
 急いで障害物を突き飛ばし、紅莉を解放する。
 そんな、という言葉が悠真の口から漏れた。
 彼女は仰向けの状態で、口を震わせていた。声を出しているのかも分からないほどに呼吸が小さい。
「そんな、嘘だ……」
 落ちた際のはずみだったのか、それとも日々子が狙ってそうしたのかは分からない。
 彼女の胸に、日々子の持っていた物が刺さっていた。かろうじて、まだ生きてはいるのだろう。ただ、それもいつ終わるか分からない状態だった。
「どうして……紅莉……」
 悠真の声にまばたきで反応するも、目の焦点が定まっていない。割れてしまった砂時計のように、彼女から赤い液体がこぼれ落ちていく。
「う、あぁ……」
 日々子が、先に意識を取り戻した。右手を骨折したのか、起き上がろうとして失敗していた。
 それでも諦めず、今度は紅莉の傍に落ちていた本に向かって地面をずるずると這い始めた。もはや日々子は、本に対する執念だけで動いている。
「お前が……お前の、せいで……!」
 それは十六年間という悠真の人生で、初めて湧いた感情だった。
 自分たちを追いつめた、全ての元凶が憎い。紅莉がこんな可哀想な姿になったのに、どうしてコイツが生きている。
 コイツがこの世に存在している理由は一体なんだ?
 たくさんの人を殺した犯罪者を野放しにしていいのか?
 そんなことは、許せない。絶対に、赦せない。一刻も早く、目の前から消し去ってしまわねばならないだろう。間違いない。コイツが悪で、俺が正義だ。
 気付けば悠真は行動に移していた。
 紅莉に刺さっていた棒状の異物を素早く抜き去り、害虫の如く這いまわる日々子に跨ると、ソレを彼女の背中に目掛けて力の限り突き刺した。
 何度も、何度も。
 グチャッ、グチャッと音を立てながら肉が掘削されていく。肉片が自分の顔に飛び跳ねようが構わない。
 日々子はそれでも必死に本へと手を伸ばそうとするも、悠真が馬乗りになっているために届かない。途中で何か断末魔のような怨嗟の声を上げるが、悠真の耳には全く入っていなかった。ただ、それもしばらくすると聞こえなくなった。
 それでも、悠真の手は止まらなかった。肉をミンチにするような音が、神の居る教会の前で響いていた。
 やがて、悠真の体力にも限界が訪れる。その頃には、日々子はもう日々子でなくなっていた。失敗した昆虫標本のように、無残な姿となった肉の塊が地面に転がっていた。
 悠真はだらりと項を垂れた。終わったのだ。すべてが。
 自分の身体はもはや誰の血かもか分からないほどに、真っ赤に汚れきっている。涙のように、顔からぼとりぼとりと雫が落ちていった。
「あか、り……」
 悠真が愛した女はもう、息をしていなかった。
 もう、死んでもいい。ここに神様が居るのなら、どうぞお好きに自分をあの世に連れて行ってくれ。そう思いながら、悠真の意識は闇に落ちていった。

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