透影の紅【第20話】

 
「お姉さんに没収された……?」
「アタシが貯金を使って本を買ったのがバレちゃって。お姉ちゃん、マジギレしてさぁ……」
 どうやら彼女、高校を中退して配信者として生きていくと決めた時に、両親と大喧嘩をしたらしい。そして半ば家を飛び出し、既に社会人として独り暮らしをしていた姉の元に転がり込んだ。
「ママたちを説得する代わりに、お金の管理は全部お姉ちゃんがするって条件だったんだ。それを今回、アタシが勝手に使ったから……」
「あぁ、それは怒るだろうなぁ」
「うっ……だってぇ! あの本を使ってもっと有名になれば、お姉ちゃんを安心させてあげられるって、思って……」
「結果的に迷惑かけてるんだから、本末転倒だよな」
 それにオークションで購入した本が偽物だったら、完全に立夏は詰んでいた。
 彼女の姉――花音(かのん)というらしい――が怒るのは当然だ。本を没収したのだって、妹に反省を促すためだと言われたら納得もする。
 ……だが、今回に限ってはその判断は最善ではなかった。今あの本を持っているのはあまりにも危険すぎる。
「お姉ちゃん、昔っから正義感が強すぎるんだよ! なんでも私に人としての道理から外れたことはするなって言うし、髪を染めただけでメッチャ怒るし!」
「あのな、それは普通だと思うぞ?」
「悠真君、取り敢えず今はお説教するのはやめておこう? それより立夏さん。お姉さんが勤めている場所を教えてくれないかな?」
 紅莉の言う通りだった。今は立夏の更生を促している場合じゃない。
 仕事中だろうが、会うなら早目がいい。彼女の姉も殺人鬼から追われたくはないだろうし。
「分かった……」
 立夏はガックシと肩を落とし、姉の勤め先を二人に伝えるのであった。

 ◇

 立夏の姉――山科花音は河口総合病院に勤める五年目の看護師である。
 脳外科病棟に配属され、中堅の看護師として日々患者のケアに勤しんでいた。
 彼女は目上である医師や師長にも決して物怖じをしない。間違っていると思うことはキチンと言うし、自身に対しても厳格だった。
 それは命を預かる職業として当たり前だと思っていたし、誇りにも思っていた。
 かといって彼女はただ厳しいだけでは無かった。患者に対して丁寧な応対をするだけではなく、後輩のフォローも怠らない。
 花音を煙たがる医師や上司は少なからず居たが、それでも彼女の仕事ぶりは認めざるを得なかった。なにより誰に対しても分け隔てなく平等に接する姿勢は、誰の目にも好印象に映っていた。
 昼のラウンド――患者の体温チェックが終わり、花音は早足でナースステーションに戻ってきた。するとその姿を見た先輩から「花音に客だよ」と伝えられた。
 いったい誰だろう。こっちは仕事中で忙しいんだけどなと思いつつ、その客が居るという休憩ラウンジに向かった……までは良かったのだが。
「妹が買った本を渡してほしい……?」
「はい。このままでは異能を持った殺人鬼に狙われかねませんので」
「はぁ……」
 彼女は対人スキルに自信を持っていた。
 しかし今、目の前にしている二人組に対して、どう接すればいいのか測りかねていた。
「取り敢えず、立ち話はなんだから座りましょう? 何だか話も長くなりそうだし」
 彼女はそう言ってラウンジのテーブルを指差した。
 悠真たちもその方が有り難かったので、彼女の提案に乗ることにした。
 花音は二人がテーブルに向かっている間に自販機でコーヒーを三本購入してから、自分も席に着く。
「実は……この本を巡って、とある争いが起きているんです」
 紅莉はお礼を言ってからコーヒーを受け取り、口を一度湿らせてから事情を話し始めた。
 立夏に説明したようなことをもう一度説明しなければならないとあって、紅莉の表情にはやや疲労の色が浮かんでいる。しかも妹の立夏と比べて、頭の固そうな花音を納得させるには、かなり骨が折れそうだ。
 態度の節々から堅物そうで、オカルトじみたことは一切信じなさそう。奇しくも悠真と紅莉は花音に対して同じ第一印象を抱いていた。
 事実、彼女の顔は引き攣っていた。相手が妹と同じぐらいの子供だから怒鳴らないだけで、職場の同僚であれば雷が落ちていたに違いない。
 どう説明しようか……と二人は視線で会話する。だがそれは、どうやら杞憂だったようだ。
「それって、最近起こった星廻に関連した事件のこと?」
「え……?」
「花音さん、もしかして知っているんですか!?」
 まさに青天の霹靂。悠真も紅莉も彼女の言葉に目を丸くした。
 立夏は星廻や禍星の子について何も知らなかったというのに、花音は自分からそのワードを出してきたのだからそれもそうだろう。
「そりゃあ、ね。ふぅん、貴方たち、二人とも透影なんだ」
「どうしてそれを……!」
「悠真君、ハメられたかも。この人、全部分かっていてこの席を選んだんだよ」
「席を? ……あっ」
 悠真は周囲を見渡した。このラウンジにはテーブルや椅子の他に、患者用の公衆電話にテレビがある。さらに洗面台と――。
「鏡か!」
「ふふ。御名答。貴方たち、他人に星廻のことで警告してきた割に、随分と隙だらけじゃないかしら?」
「うぐ、それは……」
「まぁいいわ。貴方たちが敵じゃないことも分かったことだしね」
 初対面の人から貰った飲み物を、何の疑いもなく飲むぐらいだし? と笑いながら、花音は自分のコーヒーを飲み始めた。
 悠真は自分の迂闊さに頭を抱えたくなった。すっかり手のひらで転がされた上に、逆に心配までされてしまった。
 二人とも同じように頬を染め、罰が悪そうに肩を落とした。
「あはは、そう落ち込まないでよ。気持ちは有り難かったわ」
「じゃあ、あの……妹さんから本を取り上げたのは……?」
「妹の立夏が本を購入したのは本当に偶然よ。さすがの私もそれを知った時はかなり焦ったわ……でもまぁ、事前に対策が打てたのは僥倖だったかな」
 こうして貴方たちと出逢えたしね、と花音はウインクまじりに笑った。
「あの、それで本のことなんですけど……」
「えぇ。こちらからも協力をお願いしたいわ。それに実は私、他にも本を持っている知り合いが居るの。彼と力を合わせれば、あの女に対抗できるはずよ!」
「本を持っている知り合いが居るんですか!?」
 これは思わぬ収穫だった。まさか他に本を持っている人間の情報がここで手に入るとは。
「うん。ちょっと変わり者なんだけど、観月っていう男でね。付き合いは長いから信用はできると思うわ」
「え? 観月……?」
 悠真はその名前を聞いて、最近知った人の中に思い当たる人物がいることに気が付いた。
「なぁんだ、知り合いって洋一さんのことかぁ」
「えっ? もしかして、貴方たちも洋一を知っているの?」
「はい。実は最初にこの件で相談しに行ったのが洋一さんのところだったんですよ」
 少しガッカリした様子の紅莉と、今度はビックリする側になった花音。
 念の為に悠真が『火傷の痕が印象的な男性』だといえば、花音もまさにその人物だと言う。
 どうやら花音と洋一は高校時代からの昔馴染みで、卒業後も何度か顔を合わせていたらしい。つまり付き合いの長さだけで言えば、紅莉よりも花音の方が長かったのである。
「なぁるほどねぇ。そんなことがあったの」
「はい……だけど、中々上手くはいかなくって」
「あはは。洋一も妹さんが絡むと頑固だからねぇ」
 ここまでの事情を説明すると、花音は同情するかのような目を向けてきた。
 残された時間が少ないにもかかわらず、中々進展がなさそうだと察したのだろう。
「事情は分かったわ。洋一は私が何とか説得しましょう。元々明日会う予定だったから、貴方たちも来ると良いわ」
「良かった……!」
「ありがとうございます、花音さん」
 心強い協力者が現れてくれたことで、二人は心から胸を撫で下ろした。
 これまで空振りばかりだったが、ここに来てやっと運が回ってきたようだ。
「それじゃあ、明日。洋一の館に集合しましょうか」
「よろしくお願いします!」
「二人とも、気を付けて帰ってね~」
 そう言うと花音は立ち上がり、全員分の空き缶をスッと掴んで去っていった。
「素敵な女性だね、花音さんって」
「あぁ。立夏は口煩いって言っていたけど、理解もあるし優しいし、頼れる人だったな」
 デキる大人の女を見せつけられた二人は、すっかり彼女に心を許していた。最初に警戒をしていた分、抱く人物像の落差は大きかった。
「むぅ、随分と褒めるね」
「あはは。でも俺にとっては紅莉が一番だよ。さぁ、帰ろう」
 可愛く口を窄める紅莉の手を取って、悠真たちも帰途につくことにする。
 今思えば、最初から最後まで花音のペースだった。
 主導権なんて何ひとつ無かった。自分たちがいかに子供で、考えが甘かったか思い知らされた。それこそ、敗北感すら覚えないほどに。
 だが、病院をあとにする二人の表情は、とても晴れやかだった。あれだけ重かった足取りも、今では随分と軽くなった。すべては進展があったおかげだ。
「紅莉……」
「なぁに、悠真君」
「……いや。早く全部終わるといいな」
 紅莉は「何を急に?」とキョトン、とする。しかしすぐに彼の言葉に込められた意味を理解したのか、悠真の腕にギュッと抱き着いた。
「えへ。そうだね。そうしたら、ずっと一緒に居ようね」

 夜六時過ぎ。
 悠真たちと別れた後、キッチリと仕事を終えた花音は私服へと着替え、一人自宅のマンションへと向かっていた。
 彼女は敢えて普段とは違う、人通りのない住宅街の道を選択して歩いている。
 太陽が沈みかけ、昼と夜の景色が入れ替わるこの時間帯には、あの世とこの世の境界線が曖昧になるという。通称、逢魔が時。
 読んで字の如く、魔に逢う時間という意味であるのだが。花音は今、鬼に遭遇していた。
「見ていたんでしょう? 私はやるべきことはやったわよ!?」
 花音は丁字路で急に立ち止まると、誰も居ない空間に向かってそう叫んだ。
「ほ、本当に妹は助けてくれるんでしょうね!? あ、あの子は本当に無関係なの……何も知らないのよ……!」
 いつもの自信たっぷりの彼女とは思えないような、震えた声だ。辺りをキョロキョロと見渡しながら、脂汗をダラダラと流している。
「本なら……ほら、ちゃんとあるわよ! これが欲しいなら持って行きなさいよ!」
 仕事用の肩掛け鞄から一冊の青い本を取り出すと、花音は道端に放り投げた。
 瞬間、辺りが急に暗くなった。まだ辛うじて太陽は地平線を漂っているにもかかわらずである。そして、花音の身体を強烈な殺意が突き抜けた。
「……っ! はやくっ、持って行きなさいよ! 影だってくれてやるわ! だから……お願い……妹だけは……」
 涙で滲む彼女の瞳が、丁字路にあるカーブミラーを捉えた。そこには形容しがたい黒い何かが蠢いていて……。
「ごめん、なさ……」
 その言葉ははたして、誰に対するものだったのだろうか。それを知る術はもう、どこにもない。

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