透影の紅【第18話】

 
 薔薇が咲く季節を知っているだろうか。
 冬薔薇(ふゆそうび)という言葉があるが、普通は寒い時期に薔薇は咲かない。新緑にしっかりと太陽の恵みを受け、梅雨と共に散るのだ。
 
 洋一たちが住む洋館でも、多種多様な薔薇が見頃を迎えていた。これらは全て、館の主である洋一が手入れをしているものだ。
 中には貴重な品種や、扱いが繊細で栽培が難しいものもある。
 ここまで綺麗に咲くまで何度も失敗を繰り返しつつも、彼は我が子を育てるように可愛がってきた。
 薔薇と共に過ごすという何とも風変わりな人生を送っている彼だが、最も愛しているのは薔薇ではない。それは自身の妹であり、花のように可憐な少女――迂闊に触れば棘で痛い目に遭う――である汐音だった。
 彼女に比べたら、薔薇を育てることなんて如何に容易いことか――。
 中身はともかく、彼女は美しい。艶のある長髪、シミひとつ無い肌、長い睫毛……いっそ精巧な日本人形だと言った方が近いだろう。
 汐音は、今日も洋館の中を和服で過ごしていた。
 名前に『汐』とあるように、夕焼け沈む大海原をイメージした橙色の装いである。
 これは以前、白い肌に暖かみを足してくれると言って洋一がプレゼントしたものだ。お兄様が大好きである汐音は週に一度は必ずこれを着るようにしていた。
 もちろん、これを着た際には洋一に見せに行くのが習慣であり、楽しみだった。
 今も汐音はお気に入りの巨大クマのぬいぐるみを抱いて、兄の部屋を訪れていた。日中は常に自室に引き篭もっているが、兄に会うためであればこういった行動力を発揮できるのだ。……館の中でのみ、という条件付きではあるが。
「――絶対に駄目だ!」
「どうしてですかお兄様!」
 そんな相思相愛な兄妹であったが、今日に限っては様子が違っていた。
 いつもは冷静な兄を演じている洋一にしては珍しく、大声を張り上げている。汐音も涙目になりながら兄に反抗していた。
「クソッ。紅莉のやつ、余計なことを吹き込みやがって!」
「私はお兄様の為を想って――!」
「冗談じゃない! どうしてお前を禍星の争いなんかに巻き込まなきゃならないんだ! 万が一お前になにかあったら、俺は死んだ親父たちに顔向けができない!」
 彼がここまで怒っている原因はたった一つ。汐音が洋一に、紅莉たちに協力するよう嘆願したからである。
「でも、このままじゃお兄様だって危ない目に……」
「それが何だっていうんだ!」
 禍星の子がまつわる争いの悲惨さを知る洋一は、汐音が関わることを拒絶する。
 だがそれもそうだろう。前回の星廻の儀では、たった一人を除いて禍星の子は全滅したのだから。
「俺は手掛かりを持っている奴の所へ行ってくる」
 洋一も覚悟を決めた。この茨の洋館から一度出る必要がある。
 紅莉たちとは直接協力はしないが、別口で事の解決を図ることにしよう。
 同じ道を行くよりも、時間の無い今は違う道で目的地に進んだ方が解決の確率が上がると踏んだのだ。
 もちろん、これが理由の全てでは無い。彼女達が目の前で死ぬのを見たくない、という気持ちがあるのもたしかだ。
「どうして……あの女の所へ行くつもりなのですね? 私を置いて……」
「いや、アイツとは別に……それに、これはお前の為に……」
「嘘よ! あんな嘘まみれな女を頼るなんて!」
「汐音!」
 ヒートアップしてきた汐音の口調が、ますます荒々しくなっていく。
 汐音は余程、兄にその女と会って欲しくないようだ。
「それにね、私……お兄様の為なら、人間だって殺せるもん」
「なにを言っているんだお前は……」
 汐音は優しい子だ。誰も傷つけたくなくて、誰ともかかわらないようにしている。
 そのくせ、自分には厳しく、いつも自分のことを傷付けてしまう悪癖がある。
 洋一は彼女の手を見つめた。何かあるとすぐ手を見てしまうのは、手相師の職業病とも言って良いだろう。
 だが、彼は妹の手相を見たことが無い。素肌を見せることを極端に嫌っている。
 本人はリストカットしていることを隠しているようだが、そんなもの兄にはお見通しである。首の痕だって、彼女が自分で首を絞めているのを知っている。自分を傷つける必要なんてないのに。
「頼む、汐音。関係のないお前は、大人しくここで待っていてくれ」
 滅多に頭を下げない洋一が、頭を下げた。それほどまでに、彼にとって妹の無事は最優先事項なのだ。
 だが当の本人である汐音はケロっとした顔で、兄の言葉を否定した。
「関係がない? それは違いますわ」
「……それはどういう意味だ」
「私も禍星の子なんです。私、禍星の子と星廻の儀について初めから知っていました。それに……お兄様が隠したがっていたことも」
 そういって彼女は、常に持ち歩いている巨大なクマの縫いぐるみを机の上に置いた。その背中にあるファスナーを開け、中から一冊の古びた本を取り出す。
「お前、どうしてその本を……!」
 それは洋一が隠し持つ、悪魔の愛読書だった。
 誰にも見せたことも無い、自分だけの本。もちろん、汐音には存在すら教えていなかった。誰の目にも触れないよう、自室の隠し金庫で厳重に保管してたはず。
 ただ、彼が本当に隠したかったものは別にある。
「この写真、見られたくなかったんですよね?」
「それは……っ!」
 汐音が本をペラペラと開くと、そのなかに数枚の写真が入っていた。それはまだ洋一と汐音が出逢って間もない頃のものだった。
「ねぇ、お兄様。私たちが出逢った頃のことを覚えていますか?」
「や、やめろ……!」
「私たちのお父様とお母様が再婚した、あの日のことを――」
「もうやめてくれ!」
 汐音が持つ写真の中には、小さな結婚式場で新郎新婦を囲う兄妹の姿があった。
 
 今から五年前。
 洋一が成人したばかりの頃、父親が知らない女性と小さな女の子を連れてきた。
 その女性は自分が教授としている大学の、事務員をしているそうだ。そして何の前振りも無く、父はこの人と再婚する、と彼に告げた。
 のちの義母が連れていた女の子こそ、当時まだ五歳になったばかりの汐音だった。
 いわゆる連れ子同士の結婚。血の繋がりのない、紙面上での関係だったが、意外にも二人はすぐに家族として馴染むことができた。
 また、親同士の中も非常に良好だった。
 父は休みの日には車を出して近くの市民プールに連れて行ったりと頻繁に家族サービスをしたし、義母も家事を頑張っていた。
 義母は身体が弱いらしく、元々父の代わりに家のことをしていた洋一が彼女を手伝ってやると非常に喜んだ。
 一見すれば、彼らの家庭は上手くいっているように見えた。
 だが、それも最初の一年だけだった。汐音が中学生になった辺りから、その関係性は次第に悪化していった。
 洋一の父親が、汐音のことを性的な目で見るようになったのである。
 女として発育し始めた汐音は、中学生とは見えない妖艶さを放っていた。
 発育と言っても、外面では無い。身体は幼いままであるのに、内面の成熟が著しかったのだ。
 洋一はある晩、自分の父親が隣りの部屋に向かうのを見てしまった。
 その部屋は汐音が寝ている。こんな時間に何の用かと思った洋一は、こっそりと扉の隙間から中の様子を覗いてしまった。
 ――自分の目で見ても、信じたくなかった。
 大学教授で厳格な性格であったはずの父が、まさか。
 唖然としている内に、汐音が悲鳴を上げた。彼女は必死で抵抗し、近くにあった置物で父を――。
 頭が真っ白になる。意識が遠くなり、気付いたときには全てが燃えてしまっていた。何もかも。家も、父も、母も。
 悲しかったが、洋一は汐音を責めずに慰めた。アイツは大事な家族なのだ。悪いのは父だ。そんな父を野放しにしている母も同罪だ。
 汐音はショックで塞ぎがちになってしまった。祖母の家を譲り受けることができたから、そこで療養しよう。
 面倒は俺が全部見る。誰にも頼らない。他に家族は居ない。もう要らない。俺が汐音を守らなければ。俺が――。

「ほら、思い出してください。私が襲われたあの晩、お兄様は一体何をしました?」
「お願いだ、許してくれ……」
 さっきまであった威厳のある兄としての気勢は、今ではすっかり失われてしまっている。
 汐音はソファの上で頭を抱えている洋一の背後に回り、そっと抱きしめてながら耳元で囁いていた。
「お兄様はお義父様を殴り殺し、お母様の首を絞めた。そして家に火を……それなのに、私が抵抗した時に火事を起こした――そう自分に思い込ませたんですよね?」
 家と家族を失ったあの晩。洋一は自身の記憶を封印することにした。己の犯した罪の重さに耐えきれず、彼は現実から逃げたのだ。
 ただ逃げただけでは無い。あろうことか、守ろうとした汐音に罪を被せることで自分を正当化しようとした。妹想いで、責任感のある兄。そういうキャラクターを作り上げた。
 だが洋一が本当に守りたかったものは、妹の汐音ではない。自分自身だったのだ。
「良いんですよ、お兄様」
「汐音……」
「そんなお兄様を、私はお慕いしております……」
 汐音はすっかり怯えてしまった洋一の顔を優しく包み、唇を重ねた。
 そこにはもう、厳格な兄の姿は無い。ただ、愛してはいけない女を愛してしまった、ただの哀れな男だ。
「ありがとう、紅莉さん。私、幸せになれたよ……」
 母親が我が子を慈しむかのように洋一の胸元に指を這わせながら、和装の少女は恍惚の表情を浮かべていた。

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