透影の紅【第15話】

 
 紅莉が部屋の扉を開けると、豚のモンスターが出待ちをしていた。
「ふーっ、ふーっ。き、君が紅莉ちゃんかい?」
「え? あ、はい」
「ふぅ、ふぅ。はいはい。それじゃお邪魔しまーす」
「あ、ちょっ……」
 ――あの野郎。
 悠真はつい、クローゼットから飛び出しそうになる。
 扉の隙間から見えたカズオらしき人物は、サングラスにマスクをした巨体の男だった。
 その男は紅莉の許可を得もしないで、マスクの下でフゴフゴと鼻息を荒くしながら部屋の中へと入ってきた。
 歳は二十代後半から三十代。横幅が大きすぎて、玄関の扉がギリギリ通れるぐらいだった。身長は平均より小さく、紅莉と大して変わらない。
 カズオはサングラス越しにジロジロと紅莉を見て品定めしていたが、どこか納得した表情になった。
「あ、あの……」
「チッ、安物か。これだからラブホは……」
 ソファにドカッと腰掛けると、背もたれの表面を手で撫でて鼻白んだ。
 座り心地がご不満だったのだろう。腰もだいぶ沈んで居心地が悪そうだ。値段よりもお前の体重のせいだよ、と悠真は突っ込みたくなった。
 この男、髪は油でも塗ったのかテカテカしているし、何より臭い。
 こちらはクローゼットの中に居るはずなのに、あの男の異臭がぷんぷんと漂ってくるのだ。
 それは香水と汗、そして公衆便所の臭いが混ざったような臭さだ。剣道部の部室の数十倍は臭い。
 ――紅莉が可哀想になってきた。
 必然的にそれを間近で嗅ぐ羽目になっている紅莉は、顔面が蒼白になっている。
 これから騙す相手を不快にさせまいと、表情を崩さずにどうにか頑張ってはいるのだが……あれではそう長くはもたなさそうだ。
「うん、紅莉君は良いオーラを持っているな。きっと君には、秘められた……そう、特別な力があるはずだ。それを僕が引き出してあげるからね」
「はぁ……」
「ん? 緊張しているのかい?」
「え? あ、いや……」
「安心して、みんな最初はそうだから」
 カズオは物凄い早口で捲し立てるように説明している。
「中止だ。これ以上はマズい。紅莉が危ない」
 そう判断し、クローゼットに手を掛けた悠真だったが、ギリギリのところで踏みとどまった。
 紅莉が右手でキツネを作ったのだ。事前に決めておいた、『大丈夫』のハンドサイン。助けを呼ぶときは左手のピースサイン。まだそれは出ていない。
 録画中のスマホを持つ手に思わず力が入ったが、紅莉がそう言うのであれば計画は中止できない。
「取り敢えず、ちゃっちゃとパワーを溜めちゃおっか。ねぇ、電話を取ってくれる?」
「えっと……電話、ですか?」
「いいから、早く。良いの? 僕、帰っちゃうよ?」
 カズオは唐突に、電話を持って来いと言い始めた。
 当然、紅莉は困惑する。
 立ったまま動かない彼女を見たカズオは、今度は苛立たしげに煽りはじめた。
 電話を取る程度なら別に無理難題を要求しているわけではない。だが、それぐらい自分で取れば良い話だ。それでもカズオは自分から動く様子は無さそうだ。
「わ、分かりました……」
 紅莉の頭は混乱する一方だったが、仕方なく彼の言う通りにすることにした。ガラステーブルの上に備え付けられていた電話を取り、カズオに渡した。
 十数分後。紅莉は目の前に広がる光景に、唖然としていた。
「はふっあふっ。あ~、うまっ。ピザうまっ」
 テーブルの上だけでは収まり切らず、床の上にも置かれたピザの数々。そしてビールやハイボールといったアルコールの缶が、山となって積まれている。
 これがすべて、カズオがホテルに注文したルームサービスだった。
「あぁ~、やっぱピザには酒だよなあっ。ねぇ、紅莉くぅん」
 カズオの言葉に、紅莉は立ったままビクっと身体を跳ねさせた。
 そんなことを言われても紅莉は未成年だ。酒の良さなんて分からない。
 カズオは返答に困っている彼女には目もくれず、指についたピザソースを舐め取っている。その指は爪が異様に長く、垢で茶色に変色していた。
 マスクの下はニキビだらけだし、顎の下にずらしたマスクはチーズと脂で汚れている。不潔の権化だ。
「あのヤブ医者……僕を診てる医者がさぁ、『これ以上酒を飲んだら強制入院ですよ』とか言ってきてさぁ。超ムカつくよね!」
 食べ物の入った口の中を見せられた紅莉は「ヒッ」と声を漏らした。
「せっかく女の子たちに囲まれて、占いも順調だったのにさー。代表が殺されちゃったせいで商売あがったりだよ、こっちは。あ、紅莉君、ビールお代わり」
「は、はひ……」
 大げさな溜め息を吐きながら、カズオは紅莉から何本目か分からない缶ビールのお代わりを貰って飲んでいる。彼女をキャバ嬢か何かと勘違いしているような言動だ。
「他の連中はビビって身を隠しちゃってさぁ。どうして僕だけがこんな目に……女の子たちにも会いにくくなったし……」
 ぶつぶつと愚痴を吐きながら、代わりに彼の口にはピザが吸い込まれていく。あれだけあった食べ物が無くなってしまっていた。
 最後に酒の代わりに飲んでいた炭酸水をぐびっとあおり、ゲップを吐いた。
「さて、パワーも溜まったことだし。始めようか」
「え? あぁ、はい」
 呆然としていた紅莉もようやく我を取り戻した。ショッキングなことが連続で起きていて、本来の目的をすっかり忘れてしまっていた。
「じゃあ、アカリ君。脱ごうか」
「……っ!? あ、いや。そういうのはちょっと」
 あのデカイ図体でよくそんな機敏な動きができるな、と感心してしまいそうなほど鮮やかな動作で、カズオは紅莉の目の前に立った。
 紅莉もこうなることは分かっていた。
 というかこれが狙いだったので、ある程度の覚悟はできていたのだが……。
「うぇ、くさい……」
 臭いに眩暈を起こしそうになっていた。
 だがカズオはお構いなしに、紅莉に近付いていく。
「いやっ!?」
「うっるさいなぁ、キミだってそのつもりでボクを誘ったんだろぉ?」
「違いま……きゃあ!」
 嫌がる紅莉をカズオはベッドに押し倒してしまった。巨体に跨られてしまっては、力の弱い紅莉では抵抗ができない。
 カズオは長い爪先で、器用に彼女の服を脱がしていく。
「占いをするには裸で密着する必要があるんだよっ。お、お互いの理解が必要なんだ! きっとアカリ君も、僕のアレを気に入ってくれるからさぁ~」
「いやああぁっ!」
 悠真はもういいだろ、とクローゼットに手を掛ける。
 その時、悠真はカズオの腹を叩いて抵抗する紅莉の右手が見えた。手の形は――キツネだった。
 悠真が躊躇しているうちに、彼女は遂に下着姿にまで剥かれてしまった。カズオは舌なめずりをしながら、最後の砦の攻略に取り掛かろうとしたのだが……。
「はれ?」
 急に呂律が回っていない言葉を発したと思ったら、紅莉を抑え込んでいた手が緩んだ。口からはヨダレがだらりと垂れて、紅莉の顔に落ちた。
 そのまま前屈みになって、崩れるようにして紅莉の上に覆いかぶさった。
「え……?」
 この展開は悠真も聞かされていない。予定では襲われる途中で止めに入る手筈だったから。
 つい驚きの言葉が出てしまったが、もはやカズオはピクリともしていない。まるで死んでしまったかのようだ。
「ゆ、ゆうまく~ん!」
 何が起きたのか分からず呆気に取られていると、紅莉がカズオのお腹をぺチぺチと叩きながら名前を呼んでいた。
「た、助けて~、潰れるぅ~」
「わ、分かった! 今行く!」
 紅莉は無事だったようだ。慌てて暗闇のクローゼットから飛び出した。
「これは紅莉がやったのか……?」
 岩のように大きなカズオの体を転がし、紅莉を救出することに成功した。
 この豚のような男に乗られたら、男の自分でも抜け出すのは容易ではないだろう。本当に重く、そして臭かった。
「えへへ。お酒に薬を入れちゃった」
「薬!? そんなものを持っていたのか!?」
「女の子は危ない目に遭うことが多いからね~。念のために、家にあったお母さんの薬箱からちょっとだけ貰っておいたの。他にも……ほら」
 紅莉は浴室の方にあったタオルで顔についたカズオのヨダレを拭きながら、枕の下からスタンガンを取り出した。
 なんてものを家に保管しているんだとも思ったが、今回はそのお陰で助かったのだから責めることもできない。取り敢えず彼女を怒らせるような真似は、絶対に避けようと心に決めた。

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