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なぜ「ツラい」と思ってはいけないのか

いつだったか忘れてしまったのですが、記事の中で私は自分は「ツラい」という言葉を使ってはいけない、思ってはならないと考えている節があるといった一文を書いた記憶があります。

そこで「なぜツラいと思ってはいけないのですか?」と聞かれたので、そのことについて触れたいと思います。


前置き

前置きしておきます。
「ツラいと思ってはいけない」ということについて、
これは他の人には当て嵌まりません。

あくまで自分が自分に対してそう思っているだけであり、他の人には一切無関係な内容なので、他の人が「ツラい」と思って相談をしてきてくれることについては「大丈夫かな...」等と気にかかり、話をします。

また、非常によく言われますが「相談すべきだ」「もっと息を抜いて楽になるべきだ」といった意見は私の中では不要です。

私は人に相談をしませんし、どこか別のシーンで息を抜いているので問題ありません。

そうでもなければ病気にでもなっていると思うので、本当にこういうものであり、世の中にはそういう人間もいます。


なぜ

では「なぜツラいと思ってはいけない」と考えているのか。

おそらくですが「ツラい」と思う自分は嫌いだからなのだと思います。

どういうことかと言うと「ツラい」と思い悲しみ、人を集めて相談をするような自分が想像できない、というかそもそもそういったことをする考えが産まれつきあまり備わっていないのかもしれません。

以前 懺悔 にも少し出しましたが、「相談してほしい」と言われますが、私としては「したくないからできない」のだと思います。
※もしくは考えが浅く、相談に至るまでの悩みを抱えていないことがほとんどです


それは強がりでは?

自分でもこれが強がりなのか強がりじゃないのかいまだによくわかっていないのですが、普段思ってはいけないと制限をかけているからか、よほどツラければ「ツラい」とほんの少しだけ心の内で思うだけでも充分効果を発揮することもあります。

私の対処法としては、嫌なことがあればまず寝ます。
寝ると悪夢をみるわけですが、その悪夢の内容がツラい出来事を上回ることが多く、起きた時にツラかった出来事の何パーセントかを忘れてしまっていることがよくあるので効果覿面です。

睡眠の力ってすごいですよね。思い浮かばなかったアイデアが睡眠を挟むことで一瞬で浮かぶようなこともありますし。

もしくは「ツラい」と思っている時こそいつもと違う心と脳の部分が動いている瞬間であり、2~3日もしてもうこの感覚を味わうことがないのであれば、
耐えられそうなレベルであれば耐えて何らかの形でのこすようなことをした方がよほどスッキリします。

人に相談するよりかは文字やその他諸々、作品等でのこした方が、私としては満足度が高いわけです。

だからnoteを始めた当初も、ここでツラかった出来事を公開することでスッキリしていたのだと思います。
(あれ?これでは結局間接的に視聴者という人を相手に頼ってしまっているのでは?)

他にもツラいと思いかけたら悲しい映画を観るとか、悲しい音楽を聴くという方法も取っています。いつもより作品を楽しむ際の深みが増します。

要は、私も結局は「ツラい」とどこかで思ってはいるのでしょう。
ただそれを“人に慰めてもらう”という方法は自分には適切ではないから、口には出してはいけないと思っているのですね。


ちなみにですがここで度々出てくる「ツラい」をわざわざカタカナにしているのは、漢字にすると「辛い」で、稀に「からい」と間違えられてしまうことがあるからです。






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