見出し画像

先生に「先生」と呼ばれた学生 (エッセイ)

2年前の今月、工学部(卒論研究)と大学院(修士論文)で計3年間、担当教授としてお世話になった恩師が亡くなった。

先生はクリスチャンで、真面目で穏やかな人だった。学科の他の教授のように、権力争いをしたり、高圧的だったりすることが皆無だった。

修士課程進学と同時に結婚した僕は、その専攻でただひとりの既婚学生だった。

いわゆる披露宴は行わなかったが、担当教授からは、
「おめでとう。これ、少ないけれど」
とお祝いをいただいた。
そして、
「同じ松戸市内だからね。……別の面で《応援》するから」
と続けた。
「Pochi君は、将棋をやるそうだね」
「はい。将棋会館で初段ぐらい、と言われました」
「学科の野球チームで優勝したよな」
「はあ、……僕自身はたいして活躍しませんでしたが」
「そこで、頼みがあるんだが、息子に将棋とキャッチボールを教えてもらえないかな」
先生にはお子さんが3人おり、2番目の小学校4年生が、同級生と遊ぶのがちょっと苦手なんだ、と付け加えた。
九州で教員をしていた妻は、結婚による移転で失職し、東京でバイト仕事に就いたばかりだったため、プラスアルファ収入が得られるのはありがたかった。

「将棋を指して、キャッチボールするだけの家庭教師?」
帰宅して話すと、妻は目を丸くした。

しかし、翌日、再び教授に呼ばれた。
「いやあ、家内に話したら反対に遭っちゃってね。息子は算数が苦手だから、君の奥さんに教えてもらいなさい、って言うんだ。私は将棋とキャッチボールだけでいいと思ってるんだが……」
先生は少し顔をしかめ、残念そうに言った。
うーむ、でも、奥さんの意見の方が正しそうだな、と僕は思った。


それから毎週、日曜の朝10時に、彼(H君、と仮称しよう)は僕らのアパートにやってきた。
先生夫妻の力関係を推し量った結論として、僕たちは《算数》を優先することにした。
妻の話では、「算数が苦手」なんていうこともなく、かなりものわかりのいい生徒だったようだ。

H君は、算数の勉強をしながら、チラチラと時計に目を走らせていた。11時になるのを待ちかねているのだ。

1時間の《授業》が終わると、H君はいつも顔を輝かせて将棋盤を取り出した。そして、勝負の流れにもよるが、1局か2局終えた後、アパート前の広場でキャッチボールをした。


僕たち夫婦は時おり、先生の自宅に招かれ、奥さんの手料理をごちそうになった。
先生ご夫妻は、H君がいる場所ではもちろん、本人がいなくても、
「Pochi先生」
と僕らを呼んだ。

そのうち、先生は、僕のことを研究室でも、うっかり、
「Pochi先生」
と呼んでしまうことがあった。
他の学生は、最初は驚いていたが、事情がわかり、慣れていった。


卒業後、何年かが経ち、先生が僕に相当腹を立てている、という噂を耳にした。僕が発表したコメディ小説に登場する《担当教授》が、先生自身をモデルにカリカチャライズしている、と思われているらしかった。

公私ともにお世話になった先生に、そんな風に誤解(と言い切れない面もあり)されているのはとても辛いことだったが、これも《モノカキ》の宿命だろう、と受け止めることにした。

亡くなる3年前に、先生の米寿をお祝いする会があり、久しぶりにお会いした。僕に対してはまだ、多少のわだかまりがある気配を感じたが、先生はお元気で、同窓会報に書いたという長い追憶記事のコピーを弟子たちに配った。
スピーチの順番が回ってきた時、僕は、将棋とキャッチボールの家庭教師をして、先生から「先生」と呼ばれていた話をした。

先生は笑って、ウンウン、とうなずいていた。

#わたしの舞台裏

この記事が参加している募集

忘れられない先生

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?