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語学エッセイ | 見て見ぬ振りをすること_見逃してあげること

 よく知っている言葉であっても、辞書で確認してみることがある。だが、同じ意味内容の言葉なのに、ニュアンスがどことなくずれている言葉というものがある。

 ちょっと前、noteで「やさしさを感じた言葉」というお題があった。
 結局うまくまとめられなかったのだが、今までのことを振り返ってみたとき、どんな時に人の優しさを感じただろうか、と考えてみた。
 その時真っ先に思い浮かんだのは、見逃してもらった時が一番嬉しかったかな、なんて思った。
 一生懸命やって失敗してしまったこともあるし、やろうと思えば出来たのに行動に移すことが出来なかったときもある。そういう時に、あえて何も言えず放っておいてくれた友達や先生には、とても優しさを感じた。

 では、逆に一番嫌だった思い出って何だろう?と考えたとき、真っ先に思い浮かんだのは、「見て見ぬふり」をされたときだったなぁ、ということだった。

 ???
 そういえば「見て見ぬふりをすること」と「見逃してくれること」って、少なくても外形的には同じことじゃないか。

 「見て見ぬ振り」を辞書でひいてみると「事を実際に見ても、わざと見なかったように振る舞うこと」というように説明されている。
 「見逃す」を辞書でひいてみると、「①見落とす。②気がついていながら見ない振りをして、とがめないでおく」のような説明がなされている。
 そんなにたくさんの辞書にあたったわけではないが、調べてみた限り、どの辞書でも「見逃す」の語義と「見て見ぬ振り」の語義とは、そう大きな相違点はないように思われた。

 ほとんど同じ語義であるにもかかわらず、私はなぜ「見て見ぬ振り」には強いネガティブなイメージを持ち、「見逃してくれる」には強いポジティブなイメージをもっているのだろう?

 ここからは辞書に頼るのではなく、自分の頭で考えてみた。

「見て見ぬ振り」と「見逃す」とは、第三者から見ると、外形的にはまったく同じ行為である。ということは、当事者どおしがお互いのことをどう思っているかによって、言葉の選択が変わるということだろう。

 「見て見ぬ振り」には、私の為したことに関して、相手方がなるべく関わりたくない、という意図が感じられる。被害?が自分に及ぶのをできるだけ避けたいという気持ちが見える。
 一方、「見逃す」には、私の為したことに対して、相手方はあえて黙することによって深く関わろうとする意図が感じられる。被害?すら、引き受けようとする気持ちが見える。

 ・・・と、ここまで考えてみた時に気がついたのは、どちらも外形的には同じであるから、結局のところ、私自身が相手の気持ちをどうとらえているかによる相違しかないのではないか、ということである。相手の本心など、実際のところ、知りようがないではないか?

 私が相手方に対して好意をもっていれば「見逃してくれた」と思い、悪意をもっていれば「見て見ぬ振りをされた」と感じるだけではないかと。

 ちょっと話が飛ぶが、noteをはじめてから読書したり、新聞やテレビを見たりする時間が激減した。しかし、書く記事のネタは次から次へと浮かんでくる。それはたぶん、それなりに英語をはじめとする語学をやって来たからかな、と思う。

 「見逃す」と「見て見ぬ振り」との意味の違いやニュアンスの違いに関心をもつのは、語学することを通して、英語と日本語のニュアンスの違いに敏感になっているからだろう。
 最近は新しい英単語を覚えることよりも、英語とそれに対応させている日本語の言葉との微妙なニュアンスの違いに興味をもっている。
 試験勉強ならば、英単語と日本語の単語を一対一で対応させておけば事足りることが多い。しかし今は、意味の違いだけでなく、クオリアの違いがとても気になる。換言すれば、一般的にどのように使われているのかよりも、自分の言語感覚と自らもっているクオリアに近づけた言葉遣いに関心が移っている、と言えるかもしれない。

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