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観察による未知の発見が知欲をドライブさせるのです。

自分のここ数年間を振り返ると、「何かを知りたい」という欲求に大きな波があったように感じている。

あるときは貪るように本を読むことができたが、最近はそういう「知」に対するモチベーションがあまり上がっていない。

あのとき貪るように本が読めたのはなぜだろうか?

それは、自分がわからなくてモヤモヤしていることの答えを知りたくて、それを探すようにしていたからだ。

一つ答えのようなものが見つかったら、今度はまた別の疑問が浮かんできて、その答えを探していくと、また新しい疑問にぶつかる。その疑問を理解するために自分に足りない素養や資質があると、それも身につけるための知識も手に入れる必要に迫られて、ぐんぐん進んで読書ができたのだ。ゲームの時間、エンタメを楽しむ時間、食事の時間を棄ててでも本が読めたのは、その感覚があったからだ。

自分としては、その感覚は結構好きだった。知欲に向かって自分がドライブしているような感覚だ。

しかし、あるときからその熱が冷めてしまったように感じたのはなぜか?

それは、どことなく「到達感」があったからではないか?

例えば、元々の私の疑問だった「人はなぜ争うのか?」という疑問に対して、「そこに『論理』という方法の限界があるからだ」という自分なりの解を得たことや、「この社会において左右の対立が生じるのはなぜか?」という疑問に対して、「それは人間をどうモデル化するかの前提が異なっているからだ」という自分なりの解を得たことなどだ。

こうして、本当はきっともっと複雑な問題なのだろうけど、自分としては腑に落ちる解を得られてしまったのが原因かもしれない。そういう状況に陥ったとき、ドライブしていた感覚が失われる。

だとしたら、またあのドライブする感覚を得るためには、自分にとっての新たな疑問や課題を見出す必要があるのだ。

そのために大事なのは、科学(Science)の原点に戻り、「観察」から始めることだ。目の前の現象をつぶさに観察して、その状況を変えたいと思うのならば、何が必要なのかを考えることだ。もう既に知っていると思っていることから、観察によって知らないことを見つけ出す作業だ。

私はこれに苦手意識があるが、あのドライブ感をまた得るには、必要な作業なのだ。

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