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全てのことは通過点。最終目標など無いのです。今日の朝食はあんバターパンと野菜スープ(カツオ缶入り)

ゴールを決めてしまうと達成感は得られますがいつも幸せだと言い切れないのです。インターネット上でのマナー&ルールを理解してネットを楽しむ目標はゴールでは無いのです。

なぜなら、本当の目標は幸せになることだからです。

幸せってなんでしょうか?幸せを理解できていないのに目標にしてしまうと目標がぶれてしまいます。幸せだと思えば幸せです。幸せだと思わなければ幸せでは無いのです。毎日、毎時間幸せだと思っていれば目標は達成できているのです。

目標が達成できたならばそれで終わりでしょうか?
目標が達成できないとわかった時に終わるのでしょうか?
目標は通過点でしか無いのです。

次の目標を準備して今の目標を通過点とすれば今、行なっていることが終わることはありません。次の次の目標も通過点だと思って一歩一歩進めていけば終わることは無いのです。

通過点があって未来が続くとわかれば不安は無くなります。でもその通過点が達成できないとわかった時にどのような行いができるのかを決めるのが心です。

通過点に条件をつけることができるのが心です。もしもと考えてしまうのが心です。もしも告白して受け入れてもらえなかったらどうしようと思うのが心です。

心を説明するのに何かに例えてしまうと心は例えられたものだと思ってしまうのです。ですから心を説明するのに例え話では無く実例でお話しするのです。実例は人の数ほどありますから同じようでも同じでは無いのです。

あなたの心に、正解も不正解もありません。心は経験で育つのです。その体験の手助けをするのが教育です。教えて育てるのです。でも心は見えません。形がないのです。見える形に変えたりすると心はそのままでは無く見える形に変化して伝わってしまうのです。

心を伝えるために無言、無行動になって察してくださいと思っても心は無言、無行動となって伝わるのです。無言、無行動からわたしの心は何を受け取るのでしょうか?昔は威圧感だとか非協力的を感じたのですが最近は寂しいと感じるようになったのです。人によって無言、無行動から受け取る印象は異なるのです。

教育では、伝わったことの確認のために試験があるのです。でもそれは記憶力、理解力、判断力などを見ることができても心を見ることはできないのです。心は教育から学ぶことを教えられて育つのです。

学ぶとは自分の疑問を解決するためのヒントを得るための行為です。疑問に感じる心が学ぶ衝動となるのです。

テスト結果は通過点です。その先にある通過点を見るためにあるのです。
テスト結果ばかりに目を向けてその先にある通過点を見誤ると心が揺れ動く結果になるのです。

ルール&マナーは、モラルを育てるためにあります。
免許証はルール&マナーを理解してテスト結果が良ければもらえるのですが、モラルについてはテストできないのです。それは見える形にした途端にマナーやルールに変わってしまうからです。

マナーやルールを勉強して試験に受かったからといってモラルが合格点だったとしてもモラルは経験によって変化するものですから常に学ぶ姿勢が必要だと思うのです。

隠れていた残虐性、他人のモラルを破壊する思想が現れないとは言えないのです。その例が戦争はいけないことだとわかっているのに無くならないことです。

モラルを育てることが世界平和につながるのですが、それを形にすると心を形にすることになってしまいます。そのような心を形にしないで育てるために芸術があると思います。

芸術、美術、文芸、手芸は、心を伝えることで心が育つのです。
通過点とは分岐点でもあるのです。分岐点だと気づけば迷うことは少ないのです。その先にある通過点のその先に通過点があると思うのです。

分岐点も通過点も自分で気づくことで自分の意思、意味、意見になるのです。わたしの心はわたしの意思、意味、意見の全てで成り立っていますから切り取ったり要約してもそれはわたしの心ではありません。わたしの心の一部をコピーして自分の心だと発表してもそれはわたしの一部だと思います。

あなたの心を伝えたいのならば伝える努力をすることで伝えることができるのです。自分の心を伝えたいと思わず金儲けがしたいと思っていたならばそれは金儲けがしたいと伝わるのです。

自分が受け取った他人の心は言葉にすることはできませんが経験として自分の心に残るのです。

#エッセイ部門 #たぬきのポッさん #スキしてみて


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