理解していないのに理解させられているから疑問が残るのです。疑問が解決できていないから動けないのです。今日の写真は朝食です。野菜スープを毎朝作っています。
理解するとは疑問に感じることがなく、他人の質問に答えられることを言います。理解できていないから答えが「昔からそうだった」とか「考えるな、体を動かせ」と言ってしまうのです。
理解できていたならば、自分からの質問に自分で答えられるのです。
つまり、自分で判断ができるのです。自分で判断できれば自分で動けます。
他人の力が必要になれば他人に説明して理解を得て動いてもらうのです。
それが社会です。社会の幸せのために個人の幸せを犠牲にする権利を持つ人を特権階級もしくは権力者にしてはいけません。個人の幸せのために社会を幸せにする社会人にならなければいけないのです。
幸せの定義を決めないと解釈よっては不幸が幸せになってしまいます。
幸せとは自分が理解して行動できることです。理解するとは疑問に感じたことの解答が得られていて納得することです。
他人の幸せがわからないのは当然です。自分が幸せかも、わかっていないからです。でもこの記事を読んだ方は幸せになれるはずです。
疑問を疑問のまま残さないことが幸せにつながります。学ぶことで疑問を感じる心になりましょう。疑問を感じても本当の解決ではない解決法が人をダメにしているのです。それが習慣です。癖です。惰性です。
なんとなく、無意識、命令されたからと疑問を安易な解決を使ってしまって行動すると悔やむ結果になり、それで幸せだと思ってしまうのです。悔やまなければ幸せです。悔やむことのないように疑問に感じたことは「本当の解決」をしていきましょう。
幸せ依存症になるのは悪いことでしょうか?依存症になっていると気づいたら依存症について学んでみましょう。依存症とは特定の何かに心を奪われてやめたくてもやめられない状態のことです。それによって生活に支障が出てきたならば病の症状です。幸せになりたい、幸せになりたいと思うことはやめられます。やめられなくてそればかりを願う心になって他のことに目が向かなくなったならば病気だと思うのです。
note依存、仕事依存、家族依存、生活依存など頼りにしているものに依存して生きているのですから、やめたいと思わなければやめる必要はないのです。スマホ依存はやめたいと思いますから依存症だと思います。
学びのツールに、生活のツールにスマホが大活躍していますからやめることはできません。スマホ依存で生活に支障が出ているとすれば、見た目でしょうか?いつもスマホ触っていると指摘されることでしょう。
ウエラブル端末が発達して思い浮かべるだけで自分の一部となったスマフォが生活を助けてくれる世界になるでしょうか?希望する人が多ければ商品化されると思います。コスト、技術面など解決しなければいけない問題はたくさんあります。それは技術者にお任せして自分たちは働きやすい環境を与えることにしましょう。
納得させるために「年寄りの言うことだから間違いない」と言って自分は、理解できていないのに納得させるから老害だと言われてしまうのです。
理解させずに納得させるのが説得力だと思っていませんか?
そうではありません。疑問に答えることが理解してもらえることです。疑問に答える前に疑問を理解していなければ答えは答えではなくなるのです。
質問の答えをはぐらかせるつもりが無くても質問を理解できていなければ答えは出てこないのです。そして、質問の意図を知ることで答えは変わってくるのです。
質問の意図とは突き詰めると幸せを願っているのでしょうが、お金があることが幸せだと思っている人と人間関係が良ければ幸せだと思っている人から仕事の達成感、子どもの幸せが幸せ、大切な人を守ることが幸せだと思っている人など価値観で幸せの定義が変わってくるのです。
その価値観の違う人たちに説明して理解していただいて納得した行動をしてもらうには時間がかかるのです。
自分で疑問に感じたことは自分で答えを見つけましょう。ヒントは学ぶことで得られるのです。たくさんのヒントを与えられる人になって社会の疑問に答えられるようにするのが平和につながると信じています。