人を他のものに置き換えては、駄目ですよ。自然の摂理、人間の摂理。今日の写真は栗のショートケーキ。
人でなしとは、人を人とは思わない事です。かぼちゃに置き換えると緊張しないからステージに立っても自分の力が発揮できるとか、心を許すのは時間をかけて相手を観察して信用できてからとか、人と接するのはエネルギーを使います。そして悩みの大部分は人間関係です。
誰もいない無人島であれば、誰も頼る人はいないから、全ての判断は自分にかかっています。それまでに学んだことから判断するしか無いのです。でも今、住んでいる社会では人が協力、助け合い、協調しなければ幸せにはなれないのです。
協調できない、助け合うことができない、協力したく無いと思ったらしなくて良いのです。でも「相手の幸せを願う」気持ちだけは持ち続けましょう。
相手の幸せとは何でしょうか?それはその人が幸せだと思うことですから他人の私にはわかりません。それは不幸なのではと思っても幸せだと思っているのかも知れません。
ですからこちらから幸せにする事はできないのです。
自分と価値観が同じで思っていることも考えていることも同じであれば幸せも共有できます。価値観の違いは話をする事で気づきます。思っていることも考えていることもわかる相手に出会おうと思うのなら、自分が積極的にならなければなりません。
受け身であっても素敵な出会いはあります。それは「相手が幸せになることを願う」気持ちで接すれば自分の壁は低くなるのです。相手が「自分の幸せのためなら他人が不幸になっても仕方がない」と思っていたならば、態度、言動、表現で察知できますから自分と価値観が違うと察知できるのです。
「相手の幸せを願う」事と「相手と幸せを分かち合う」事は違うのです。
友好な関係とは「相手と幸せを分かち合う」とは違うのです。幸せを分かち合う仲であれば、幸せとは何かを確かめ合う仲でもあるのです。
具体的に説明しづらいのが幸せです。
幸せを分かち合うと言っても「他人の幸せを奪わない」も心の中になければ暴走してしまうのです。家族の幸せのために自分が犠牲となって仕事をしているから家事はしないと思うのは間違いです。
自分が仕事をすることが幸せでなければ、人生の大部分が幸せでは無いことになります。家事も必要です。家事をしないのは家事をすることが幸せだと気づいていないからです。
家が無ければ家事は無いのです。家があるのは幸せです。賃貸であろうが、住まいであれば家です。家は寝るだけの場所となってしまうと住まいでは無くなるのです。
生活の基準が、仕事、家どちらも生活なのにバランスが取れていないのが日本の現代社会です。家族を持てないのは、欧米に合わせられない零細企業と中小企業が日本の経済を支えているのに制度だけを押し付けるからです。
日本の大企業は、外注先を多く抱えることで成り立っています。行政は個々の要望を聞くことができず、大企業を中心に制度を作っていくのです。
大企業から中小企業、中小企業から零細企業に制度を浸透させようとしますが、結果は制度が浸透する前に零細企業が悲鳴をあげるのです。
育休が取れない従業員が辞めたり、介護のために辞めたりして必要な人材を確保できない企業が増えるのです。人を数字に置き換えて管理しようとするからリストラ対象が、何人となるのです。
仕事の再構築を行い、余剰人員に辞めてもらうのが本来のリストラですが、今のリストラは仕事の再構築を行わずに人を減らして残った人がカバーするのです。
残っても地獄、辞めても地獄が今のリストラです。
人材は工数では無いのです。一人一人が人です。幸せになると信じて仕事をするのです。自分一人では成すことができないから協力し合い、助け合い、協調するのです。その力を信じなくて人を人と見ないでお金に換算しているのです。
人はお金ではありません。人は力ではありません。人はものではありません。人は人、幸せになるために生まれてきたのです。
組織にいることが幸せで無くなったならば、その組織から離れて「幸せになってくださいと願う」だけで良いのです。幸せか不幸せかを自分の基準で感じて良いのです。組織を恨むことも壊そうとすることもしなくて良いのです。
新興宗教やオカルト集団に所属して、他人の幸せを奪うことが無いようにするには、その集団以外の人と交流を行い秘密が無いようにすることです。
秘密は誰かの幸せを奪う結果になる事以外は秘密にすべきでは無いのです。
新興宗教が悪いわけではありません。オカルト集団が悪いわけではありません。自分達の幸せを願って他人の幸せを自分の陣営に組み込もうとすることが怖いのです。他人が幸せになると信じて動くことが怖いのです。
学びの場だと信じ込ませて洗脳させる手口は防ぎようがありません。
学びに書物が良いのは自分のペースで学べるからです。疑問に感じたら書物に答えを求めましょう。
人を他のものに置き換えてしまうと人を人として扱わなくなるのです。
「あれは人では無い、鬼畜生だから成敗してやる」と思うのは人間です。
人は、幸せになる権利があるのだから人で無ければその権利はないととへ理屈を言うのです。
生命のあるものは幸せになるために生まれてきたのです。それを奪うことなく生きる事ができないのが生物です。殺生をしないと一生懸命生きるよりも殺生とは生き物の幸せをいただく事だから自分の幸せにできたと感謝してください。
学校で飼っている豚を給食で食べる授業があります。生き物を大切にする事と、それを自分の一部にすることの矛盾は、自然の摂理と人間の摂理で説明がつきます。自然の摂理として人間は動物、植物など他の生き物を食べる事で生きている。そして人間の摂理として生き物を大切にする、感謝する、幸せになるなど心があって、自然の摂理を人間の摂理で納得しようとしているのです。
人間の心は自然の摂理の中に含まれていながら自然の摂理を心の中に取り込もうとしているのです。