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王陽明の継承/倫理観

《日本知行合一観》

明治期から西洋に追従して、自尊心が汚れ、同調圧力で進化しようと奮起してきた。歴史の本質は変わらない。昨今に至っても同調圧力で、自尊心の取り戻しで人を貶す、排他的になる。人が社会化すれば、同調そのものが自分となり、自分が分からず、自尊心を養おうと、社会的正確を本質とし、ますます社会そのものは対象に対して鈍感になり、先鋭的(外部)な存在こそ吸収的意義となり、社会の同質性は生きる方向性として、そして自尊心という生命が充足されぬと生きる土台が崩れ、自死を選ぶ。これが個人の中での知行合一である。次に国家的な知行合一を取り上げたい。西洋は素晴らしいから方向を取り入れる=(知)。同調圧力で同質性を目的ツールに、方向に向かって走る=(行)。知行合一過程の繰り返しで、自尊心を傷つける、自尊心を補おうと同調圧力でさらに渇望して求める、補えば補おうとすればするほど、自尊心の拡張化に走り、全体主義で戦争に走り、知行合一で、知を養い行を手段とする、戦争終結時には行が彷徨う事になり、知を求めようと必死になった。アメリカに追随するのを自然に選ばざるを得ないのである。知が米の従属になり、行は経済発展を優先にした。だが、またもやアメリカに潰された。すると、知の矛先は、米路線をますます受け入れ、行は、国民不在の幻想の中で権力者が思うが儘にふるまう対象となる。知の追従の過程を補えば補うほど、行の民衆は政治から離れ、同調圧力で平和な日々が本質となり、知の権力者も何もしなくて良いとなってしまう。すると、知行合一ではなくなり、人間社会の本質も何が何だか分からなくなるのである。効率性ばかり重んじて、それが本質だと思っている。なぜなら、行の民衆が政治に不参加で、知の権力者が経済で人々を統治しさえすればいいという仮想に陥っているからである。真に必要なのは、知行合一、すなわち、本体強化のための原因と結果の知と行の統一なのだ。人々の知が同調圧力だと、求めれば求める程、人々の行が社会化する、社会化基準で知の欲求を促進させ、同調圧力こそ真理で、行も知を基に促進させなくてはいけない。なので、それが循環して、政治家は人々による同調圧力での社会化基準の行の実体のみが政策の対象となるのである。そうなのだ、みな、盲目にシステムを追っているだけなのだ。政治家も見えない亡霊に操られ、国民も犠牲になっている。今まで日本は自己の文化を見失いかけてきた、これからもかもしれない。

《陽明と私》

情は非社会化してこそ、情の促進、ありのままへの過程。それが禅定である、そして情のありのままが、智慧なのである。私の存在の本質とは何か。無明を解き放つことではないだろうか。無明とは何か、環境の中で“私”が存在を誇示するという事である。環境に縛られてしか、判断はできないのである。それでしかならないのである。情の知行合一とは、情と覚の知覚化である。情の日常の事上磨練は、情理を雑念の取り払いから、それを実行して、情を浄化していく事、智慧の取得後は情理の人々への浄化作業である。情と直観の合一は、情で主体を認識し、直観で行動を心と身の合一にある。情の涅槃とは、情の知覚が自由自在に操れるという事である。それによってありのままでいいと自分を肯定し、そのままで完全になる事である。陽明の知覚活性化は、知ると行うの合一、に良知を活性化していく事にあったが、私の場合、情理の浄化によって知ると行うの一体化で、良知を知覚化したのである。

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